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イベント

リピット水田堯氏による大学院生ワークショップと講演会「原子の光と映画の誕生」

  • 日時:2013年6月15日(土) 
     Workshop: 13:00〜16:00
     Lecture: 16:00〜18:00
  • 場所:東キャンパス国際研究館4階 大教室 (地図 38番の建物)
  • イベントのチラシはこちらです。

大学院生ワークショップ

PRESENTATION

片岡佑介 「黒澤明『生きものの記録』における<核>への恐怖を蔽うものについて」
佐喜真彩 清田政信における流民の声の現れ―情動、動物的なものをめぐって」
田尻歩 「メディウム的探究とアーカイヴ―震災以前と以後の畠山直哉の写真」

 コメンテーター: リピット水田堯(南カリフォルニア大学教授)
 司会: 井上間従文(言語社会研究科准教授)
 発表者紹介: 中井亜佐子(言語社会研究科教授)

 

REPORT

 集団性はどのように形成され、どのように逸脱を試み、どのように出来事とのつながりを切り結びながら現在に変容を模索しうるのか。

 井上間従文氏は、ワークショップ開催挨拶において、リピット水田堯氏の近著『原始の光』で語られるavisuality(没視覚性)とも呼ばれるところの、ゆらめく光としての映画は、原発や沖縄の問題において国民主義が主体と思われてしまうことに介入できるのではないかと語った。この問いに共鳴する形で、中井亜佐子氏による発表者紹介を受け、三人の院生から地震と核、沖縄と動物に関する論考が発表された。

  片岡佑介氏(原爆映画研究)は、1955年公開当時、庶民を代表していないという評価を受けた黒沢明『生きものの記録』を分析し、その低い評価につながる要因を探った。中心的人物である中島の抱く核への恐怖は、中島が準禁治産者となる不在の原因であり、中島を取り巻くのは核よりも財産問題となっていく。GHQの映画政策の下につくられた占領物語に要請された資本主義社会の「共謀」の過程、日の丸に統一される国民性は、封建的家大家族のユートピアとして投影されたブラジルへの移住を計画する中島を、精神病院へ閉じ込めていく過程と符合している。片岡氏は本作品が、共感しえないものの排除が清らかな国民的統一を保つ契機であることを示す映画であると指摘した。

 佐喜真彩氏(沖縄文学・芸術研究)は、新川明らの反復帰論がその主張の一方で、ナショナリズムの包摂/排除の構造に加担してしまう問題から出発し、「国家論理と連動しない民衆意識」の手がかりを清田政信の著作に見出した。集団心理と階層秩序の外圧から逸脱しようとする個人の肉声、いまだ知覚されない個人の下意識にこそ、集団によって実体化した権力を停止させる契機があるのではないか。例えばそれは「帰還と脱出」で語られた沖縄兵の母たちの原情緒、1975年の詩集に描かれる「ザリ蟹の男」の、均質性に回収しえない逸脱である。「女たち」や「少女たち」との邂逅、さらに「藻草のよう」という比喩や「泥土を」噛むといった自然物との邂逅で変容する「ザリ蟹の男」の記憶によみがえるのは、「復帰」と「脱出」の対立軸とは別の方向を模索する「情念の自発性」としての下意識ではないかと指摘した。

 田尻歩氏(写真研究)は過去の出来事の再構築を要求する「遅れた写真」という概念を提出し、畠山直哉や笹岡啓子らの写真集におけるその実践を紹介した。笹岡の東日本大震災被災地のシリーズ『Remembrance』(2011年〜刊行中)では、被災地が「広島のようだ」と形容されたことが文中に紹介され、笹岡が扱ってきた題材である広島との連続性をも喚起する。瓦礫そのものが広がりのある地平として示される写真は、それ自体出来事として、複数の場の時間/空間を接続可能にしている。畠山の『気仙川』(2012)は被災以前に撮影された陸前高田と、「柔らかな光」を湛え「全てが鋭くない形で明確」な被災後の同じ場所を収め、畠山自らが震災直後に家族のいる被災地へ赴く過程のみを記した文章とともに、読者に対してそこで起きたことの再構成を絶えず要求しているのだ。

  これらの発表への応答として、リピット水田堯氏は「特徴を失っていく場所の空間と、そこに現れる特別な時間」というテーマから、物語時間を失う狂気/逸脱/トラウマの表象を可能にするアートフォームとその内容における時間と空間、記憶/アーカイヴの構成に主体が関わらないことによる解釈停止など、またフロアも交えて黒澤作品の冷戦構造および核家族への参照、外傷の追体験としての遅れた写真、沖縄という場所の変容の行方など多岐にわたって各発表者との対話が行われた。

報告者:市川昭子(言語社会研究科博士課程)

 

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リピット水田堯氏による講演会「原子の光と映画の誕生」

INTRODUCTION

映画の誕生の年とされる1895 年は「X」線発見の年でもある。この偶然性によって放射能が映す身体と映画の奇妙なvisualityが結びつけられた。生命の中心と彼方が同時に現れる。リピット水田堯の講演は最近刊行された『原子の光(影の光学)』(月曜社2013年)にそって映画に映る不可視なvisuality、"avisuality"を取り上げる。

講師紹介: 鵜飼哲(言語社会研究科教授)

 

REPORT

  第二部の講演会に先立ち、リピット氏と16年来の友人である鵜飼哲氏が登壇し過去の思い出話を交えつつ氏の業績を紹介した。鵜飼氏はリピット氏の著作について「大変魅力的であり、かつ注意深い読者であることを要求してくるテクストである。彼の文体は映画的で、"観る"ということを学ばなければ彼の著作を読むことはできない。」と評した。

 リピット氏の講演は氏が2005年に出版したAtomic Light (Shadow Optics)からの部分的な紹介と解説が主となった。同書は今年5月に月曜社から『原子の光(影の光学)』として翻訳が刊行された。

  翻訳出版に携わった全ての人に感謝の意を述べつつ、日本語版と原著はまったく違う著作であると氏は語った。「目に見えるものは、本当に見えるのか?」「何が見えるのか?」と問い続け、幻、X線、原爆、透明人間――映画作品や文学、そして哲学における「没視覚的なもの」を考察する同書であるが、「見えない放射能」が舞うことを意識することを余儀なくされた2011年3月以降の日本において、まったく違うアクチュアリティを同書は獲得してしまったのだ。

 講演は「三つの1895年」をめぐって進められた。まず第一の1895年はリュミエール兄弟によるシネマトグラフの発明、つまり、映画誕生の年として。次いで、「X線現象」発見の年として。奇しくも12月28日という同年同日にこの二つは発見された。そして三つ目、ジクムント・フロイトが精神病理学を体系立てた年として。X線、精神分析、映画。一見すると関係のないトピックである。「必要性のないものを、どのように並べて語るか?」が同書の挑戦でもあると語り、講演の中でリュミエール兄弟のArrival of a Train at La Ciotat、James WilliamsonのThe Big Swallowの動画を会場スクリーンに写し、映画/精神分析/X線/カメラ等を実際に並べて論じてみせた。

 映画誕生百年のアニヴァーサリーである1995年に氏はこの着想を得たのだが、誕生から百周年のちょうど中間地点に1945年という終戦の年があるのだという指摘から、講演は原爆表象の話へと写っていく。しかしそれもお決まりのゴジラ等の日本戦後の原爆表象ではなく、「透明人間ブーム」を日本とアメリカのTVドラマの放映時期の違いから比較し、さらにそれをH.G.ウェルズからラルフ・エリソンへと、つまりSF表象としての透明人間を人種やアイデンティティー問題へと議論領域の射程をさらに拡大していった。

  氏の講演は、常に問題を投げかけ、聴覚だけでなく視覚にも同時に訴え続ける、オーディエンスの知的好奇心を刺激するものであった。それを示す様に、質疑応答ではフロアから、氏の議論は人類学との接続も可能なのではないか等、単なる質問ではなくさらに議論を開いていくような指摘までも飛び出し、講演会はその最後まで非常に刺激的な時間となった。

報告者:青木耕平(言語社会研究科博士課程)

 

 

 

 

 

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