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一橋大学大学院言語社会研究科プロジェクト「中国現代文学研究ネットワークの構築」主催

日中国際シンポジウム「いま魯迅を読む」(「魯迅解讀的當代意義」)レポート

 

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▲2008年11月8日(土)、一橋大学国際研究館4F大教室にて、本プロジェクト2008年度のメインイベント、日中国際シンポジウム「いま魯迅を読む(「魯迅解讀的當代意義」)」が開催された。開催に当たっては、一橋大学大学院言語社会研究科研究プロジェクト助成のほか、Hitotsubashi Invited Fellow Programからの助成も受けた。
▲中国からGao元宝(復旦大学教授・初来日)薛毅(上海師範大学教授)張業松(復旦大学副教授・初来日)の3名、国内から尾崎文昭(東京大学東洋文化研究所教授)、長堀祐造(慶應義塾大学教授)代田智明(東京大学教授)、阿部範之(同志社大学専任講師・本プロジェクトメンバー)及び本研究科教授松永正義(本プロジェクトメンバー)の5名が報告を行った(敬称略)。コーディネーターはプロジェクト責任者の坂井洋史教授が担当。当日は、寒い雨模様の天候の中、午前10時に開始され、終了は午後6時半という長丁場にもかかわらず、遠方からの参加者を含む、のべ40名を超える研究者、院生、一般聴衆が来場した。
▲報告時間に若干の出入りがあったため、各報告の後に設定した質疑応答を十分に行えなかった等の問題はあったが、それぞれの報告は、全体テーマに相応しく、多様な切り口から「魯迅」へのアプローチを試み、今日の魯迅研究の水準を十分に示すことができたといえよう。終了後の懇親会でも、中国側からのスピーカーを囲んで意見交換、交流が賑やかに行われた。当日の報告は、後日論文集の形にまとめて公刊する計画がある。以下に、当日会場で配布された「報告要旨集」に掲載の「あいさつ」及び要旨を掲げる(報告順。一部、実際の報告内容とは異なるものがある。中国側報告者の要旨は本プロジェクト・リサーチ・アシスタントの花尻奈緒子による翻訳)
●開会のごあいさつ/坂井 洋史(一橋大学教授・一橋大学言語社会研究科プロジェクト「中国現代文学研究ネットワークの構築」責任者)
▲本日は一橋大学大学院言語社会研究科プロジェクト「中国現代文学研究ネットワークの構築」主催、Hitotsubashi Invited Fellow Program助成による日中国際シンポジウム「いま魯迅を読む」にようこそお越しくださいました。今回のシンポジウムは、中国の高等研究・教育機関との学術交流を強化し、研究者・院生の交流ルートを確立、将来的には国際・国内連携を基礎とした、新たな外国文学研究・教育のモデルまでをも構想するという、研究科プロジェクトの趣旨に基づき催される、2008年度活動のメインイベントです 081108_sakai_1.JPG (37931 バイト)
▲魯迅はいうまでもなく、「中国近代文学の父」と称され、内外から高い評価を与えられてきた文豪です。しかし、その文学は決して過去のものではありません。激変する中国社会にあって、その評価や読まれ方も従来の教条の束縛を脱して、毀誉褒貶交えながら、多様化してきました。魯迅の批判精神、批判のスタイルは様々な問題を抱える現代社会に対しても、今日的な啓示を与えるものでしょう。「魯迅」から何を読み取るか。私たちは魯迅に向き合うとき、まず歴史・現実・テクストに向き合う自らの姿勢を厳しく問われるのではないでしょうか。
▲今回のシンポジウムでは、魯迅研究、中国近現代文学・文化研究に優れた成果をあげてきた日中気鋭の研究者をお招きし、様々な角度から「魯迅」に切り込みます。いま、魯迅をどのように読むか。報告者の問題提起は、必ずや魯迅研究の新たな地平開拓に貢献することになるものと信じております。

●報告#1 いま魯迅を語るときの前提条件/尾崎 文昭(東京大学東洋文化研究所教授)

▲魯迅は読者を選ぶ,彼の思想と感情は知的遊戯の対象とされることに不快感を表明している。非自省的で自動的な学術生産の材料とされることを嫌っている。私の感じる魯迅はそうだ。ならば,「いま、魯迅を読む」というテーマを掲げるとき,どういう読者として(どういう「姿勢」で)読むかということを,まずは自己に問わなければならない,それを明言するかどうかは別として。 081108_ozaki_1.JPG (37293 バイト)
▲中国では,魯迅が民族的自尊心の象徴とされたが故に,そのような問いは地下に埋もれていてそう多くは表面化しない。しかし,日本ではずっとそうしてきた。少なくとも近年までは。
▲「人類の知的遺産」と言う場合,すべての人類に等しく価値と意味をもつということを証明しているわけではない。知的水準の高い対象ほど,その価値を認めそれを必要とする人は,自然限られてくる。その意味で,魯迅もあらゆる中国人,あるいはあらゆる人類,が意義を認めて必要とする対象ではありえない。理の当然のことだ。そして彼はとりわけその特質が強い,なぜなら批判的精神をその中心的特徴としているからだ。そして多くの人は批判的精神を必要としない。
いま私たちが直面している思想的状況は魯迅が直面したものとは少々異なっている。彼が例外的に疑わなかったとおぼしき人類の進歩,理想的な人間精神の追求といったものを,私たちは現在疑わざるをえない。自由や人権や民主などという理想概念さえも。
▲しかし,それらの理想概念を疑い否定すればそれですむという話でもありえない。そのあとどうするのか。私たちは航路の見えない闇のなかで,それでも建設的な方向を目指して歩み続ける他はないが,その時に魯迅の弛まぬ「靱」の精神,矛盾の中にあってそれに耐えつつ,「無地にさまよう」のであっても,しかし方向を感得しながら現実の一歩一歩を歩み続ける堅持して弛まぬ精神を思い出せば,前にその人有りと感じて慰めを得ることができる。そして,手近の「論断」に判断停止して飛びつくまねを慎むことができるし,根拠なきまま中空に晒され続ける空虚さと困惑に耐えことができるように励ましを受けていると感じ取れるのである。
●報告#2 「魯迅と当代思潮」/薛 毅(上海師範大学教授)
▲ここで検討するのは、1990年代以来、中国大陸の思想界が魯迅に対して行った様々な解釈が描き出した、異なる「魯迅のイメージ」である。 081108_xueyi_1.JPG (37785 バイト)
▲1980年代初頭の思想界は、魯迅を啓蒙主義的なイメージで整合したが、1980年代の中期には、啓蒙主義的な魯迅は、比較的文学性の強い実存主義的イメージへと徐々に転換させられた。1980年代後期、劉小楓が著作『拯救与逍遙』で、一章を割いて魯迅に対する全面的な批判を行ったことには注意すべきである。劉小楓は、魯迅は虚無主義的な怨恨の情緒を体現したと考えた。こうした観点を最も早く示したのが劉小楓であり、その後20年の間、魯迅に対するこの種の批判は絶えなかった。
▲1990年代初頭、王暁明は『無法直面的人生―魯迅伝』を出版した。この著作は、魯迅の心の奥の体験と、表層に顕れた啓蒙主義的観点を区分したのだが、人々はこの書のテーマに対し、様々に異なる理解を持った。その後王暁明は、文学思想界における人文精神の大討論を発起し、人々はそれを1990年代の社会転型に対する精神問題の反応であると見た。
▲1990年代中期、思想界は大きく分岐した。新左派と自由主義と称された論戦は十年近く続いたが、両派の魯迅に対する理解も全く異なるものだった。汪暉の『死火重温』は、かなりの代表性を有しており、彼は1930年代の左翼時期の魯迅を強く肯定した。また自由主義を標榜する朱学勤などの人物は、魯迅について更に多くの批判と否定を行った。1980年代に『心霊的探尋』を著した魯迅研究の専門家が、魯迅に対して行った新しい解釈は、注意に値する。

●報告#3 「魯迅と富田事件〜魯迅の毛沢東・共産党観」/長堀 祐造(慶應義塾大学教授)

▲AB団粛清とそれに伴う富田事変がある。今夏、岩波書店から出版された韓鋼著『中国共産党の論争点』(辻康吾編訳)は、わずか数頁ではあるが、その一章に富田事変を当てている。この問題を早くから追及していたのは、地元江西省の党史研究家戴向青教授先駆的な論文は次のような事変の概括で始まる。

1930年5月、江西省西南ソヴィエト区における反AB団闘争は、党及び民衆機関で広く展開された。9月には高潮を迎え、11月には地方から軍隊へと発展、12月初には地方と軍隊で同時併行し、かくして紅二十軍の一部で、無差別逮捕・殺人に反抗する富田事変が勃発した。この後、「左」傾臨時中央は「富田事変はAB団が指導した反革命暴動であった」と認定した。このため、AB団逮捕殺害の更なる高潮が巻き起こったのであった。反AB団と富田事変は、相互に関連しながら、今に至るも徹底的に名誉回復されていない、歴史上の大冤罪事件である。

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▲毛沢東の直接関与したこの富田事変は、言わば毛沢東の仲間殺しの故事であり、当然のことながら党史の書き換えはいまだ進まずにいる。
▲さて、この時期、上海にいた魯迅は富田事変のことを指すと思われる「共産党が農民を殺している」という噂を耳にする。魯迅は「本当ならば止めさせないといけない」と決然と言う。
▲本報告では、当時、それ以後の魯迅の毛沢東、共産党に対する印象形成に影響したであろうこの話を、類似の例と並べて、魯迅と毛沢東、スターリン主義等との距離を確認してみたい。

●報告#4 「“魯迅風”と“知堂体”」/ 郜 元宝(復旦大学教授)

▲私の報告は、魯迅と周作人それぞれの、中国思想と中国語および新文学についての理解の仕方から出発し、魯迅と周作人の文体の特徴を形成した主観的原因を研究するものである。 081108_gaoyuanbao_1.JPG (45605 バイト)
▲大体において魯迅と周作人は、中国思想と中国語および新文学について、多くの共通した理解を持っていたと考えられているが、それぞれが創作において用いた戦略は大きく異なる。
▲魯迅は文体の確立を非常に重んじた。口語と文言と外来の文法を混ぜ合わせ、口語を基礎とし、「文言」(文字)を柱、外来の文法を参照・補充の材料とし、白話文の合法性とより完善たらしめる可能性を守ろうと努力した。周作人はそれを重んじず、また重んじないだけでなく、中国思想と中国の文章を対立させた。したがって周作人の文章は、中国の文章伝統に対する大きな破壊だっただけではなく、新文学に対する一種独特な貢献と啓発ともなった。
▲「知堂体」は「反文章」であり、思想のために文章を犠牲にするものであった。我々は知堂の思想を賞賛するからといって、無条件に彼の文章を肯定すべきではない。しかし、彼が文章に対して行った「破壊」を指摘するからといって、彼が中国の文章を破壊しながら、中国の思想と文章に特殊な啓発を与えていたということもまた、無視することはできないのである。

●報告#5 「魯迅『南腔北調集』と周作人『苦茶随筆』の対照閲読」/張 業松(復旦大学副教授)

▲『南腔北調集』は1934年3月上海同文書店から初版が出版された。『苦茶随筆』という文集の中の文章執筆の期間は1934年11月から1935年8月であり、後者の多くの文章は魯迅に向けられたもので、例えば「阿Q的旧?」、「関於耆老行乞」、「関於写文章」(悼苺s想写祭器文学煤j、「関於写文章二」、「蛙的教訓」、「関於命運」、「関於命運之二」、「後記」などである。『苦茶随筆』に収められている「喧嘩腰」の文章の多さは、30年代の周作人の文集でも珍しい。これはなぜか? 『南腔北調集』が部分的にその答えをく提供しているだろう。 081108_zhangyesong_1.JPG (45259 バイト)

▲それぞれの文章において、弟は表面上その作品はひねくれているように見えても、自己を充分に表現しているが、魯迅は内心の多くのものを表現に訴えることはない、或いは公開の表現に訴えなかった。魯迅の表現の中では、公共性と個人性の境界がはっきりしており、周作人の「個人」は「公共」と直結している。したがって魯迅は『野草』のような深い内省の作を残したが、周作人にはありえなかった。

▲二つの作品集はそれぞれ、兄弟二人の30年代初頭の文芸観と、思想的立場における違いを、かなり充分に説明しており、また両人が「五四退潮期」の危機に遭遇した後、各自「本源に立ち戻り新境地を開拓」して得た新たな発展を体現している。兄弟二人の感慨に共通する「退潮の危機」は、文章の力に対する懐疑である。魯迅の懐疑は「文芸政策」の洗礼を経て再確認へと変化し、文字による「あがきと戦闘」へと向かった。周作人の懐疑は十余年にわたり繰り返した自我の見直しを経て、「文章は読むに堪えるように書くことが第一である」と定まった。4、張蔭麟はかつて「『南腔北調集』頌」で、「周先生の本を読むといつも眠れなくなる」と言った。『南腔北調集』が張蔭麟のような「敏感な青年」の夜を眠れないものにしていた頃、周作人は過去の記憶にまとわりつかれ、逆にますます「落ち着いていった」のである。

●報告#6 「『吶喊』自序」および『崩れ落ちる線の震え』再読―父性と母性」/代田 智明(東京大学教授)

▲「『吶喊』自序」は、「『墓』の後に記す」が作家魯迅の転換点を示すとすれば、その出発点を示すエッセイと言えよう。しかしその内容については、とりわけ伝記的真実性について、竹内好以来多くの研究者が疑義を提出してきたし、現在ではそのまま信じることのできない「フィクション」だと考えられている。本報告はそれを承認した上で、しかしこのエッセイには、まず作家魯迅がたどったであろう内面的形成が「寓話」として描かれていると思われる。それは少年時代の没落による「屈辱」の体験をうかがわせ、日本留学時代の文章を補って読むことによって、それを見返そうとする「復讐」の執念さえ垣間見せている。またこのエッセイでは、いわゆる「棄医従文」のきっかけとなった著名な「幻灯事件」が語られており、これが後から作りあげられた「物語」であることを前提としつつ、むしろだからこそ作家魯迅の前期における思考の構図を見事に結晶していると言えよう。こうした観点に立ってこのエッセイを読み直すとき、魯迅において〈父性的なもの〉と〈母性的なもの〉とが葛藤する軌跡が見出されてくる。そしてその〈母性的なもの〉が強い受動性の姿勢を生みだしていることが見え隠れするだろう。 081108_shirota_1.JPG (39769 バイト)
▲そのうえで作家の転換点にあたる『野草』「崩れ落ちる線の震え」を参照してみると、そこでは〈母性的なもの〉の新たな展開が見出されるだろう。徹底した受動性としての〈母性〉は、この物語では何の意味も与えられずに裏切られる。子どもを「抱き取る者」としての作家は、「抱き取られる者」として、新たな旅立ちを余儀なくされている。本報告はこれらの分析を通して、現在的に危機にある、人間存在の不確実さに抗うためのヒントをささやかだが提示したいと考えるものである。

●報告#7 「虚構の中の魯迅像〜日中の劇映画及び映画脚本を手がかりに」/阿部 範之(同志社大学専任講師)

▲魯迅の作家としての位置づけや作品に対する解釈は、見る側読む側それぞれの立場や考えによって異なるはずである。しかし映像の中にある魯迅像は、既成のイメージを上塗りするものがほとんどではなかったか。例えば記録映画の映像はその典型であろう。また魯迅の小説を原作とする『祝福』、『傷逝』、『薬』、『阿Q正伝』といった劇映画は、小説の忠実な映像化ではなく、かといって斬新な映像表現が見られるものでもない、ただ当時の映画製作のあり方や魯迅観が反映されている点で今日的な興味を喚起させる作品である。 081108_abe_1.JPG (40267 バイト)
▲小説の映像化以外に、魯迅の生涯を題材とした劇映画が1960年代に準備されたが、クランクイン直前に製作中止となっている。残された脚本に描かれている魯迅の姿は、当時の代表的な英雄人物とは一定の距離を置いているものの、限られた人間関係とエピソードによって構成されていることからくる偏向を抱えている。2006年に撮られた劇映画『魯迅』は、新しい脚本をもとに魯迅の晩年を描いたもので、家族との交流にもスポットをあてるとともに、魯迅の小説中の人物たちも幻想の中で登場させた意欲作であるが、この作品は大きな話題を呼ぶことはなかった。これは死後60年以上が経過した現在、魯迅が遠い過去の人物としてイメージされていることを示す一つの例であろう。
▲しかし魯迅の存在は、彼が生きた時代と切り離して見ることはできないものなのか。彼の文章は、執筆当時の中国とは全く別の所にいる者とも共鳴し、彼らの想像力の源泉となることがあるのではないか。この問題を探る手がかりとして、日本の二人の映画監督、大島渚と鈴木清順の作品を取り上げたい。彼らと魯迅との微かな関わりをもとに、映画と魯迅の関係の今日的な可能性について考えてみたい。

●報告#8 「台湾における魯迅」/松永 正義(一橋大学教授)

▲台湾文学と魯迅の関わりについては、およそ3つの局面を考えることができる。第1に、1920年代の台湾文化協会の運動とともに始まった、台湾新文学の形成期における関わりである。文化協会の機関誌『台湾民報』に魯迅の作品が転載されただけでなく、運動の中で大陸に渡った青年たちの何人かは、魯迅との直接の交渉を持ち、魯迅の日記の中に名をとどめている。第2に、戦後台湾に渡った許寿裳をはじめとする進歩的知識人たちと、台湾の知識人たちとの関わりがある。両者の合作による『台湾文化』や楊逵たちの活動は、いわば台湾の戦後再建のために「中国」のどのような部分を受け継ごうとするのかを模索する試みだったとも言える。そしてその中では魯迅は一つの焦点となっていたかのような観がある。そして第3には、国民党の文芸政策の中での魯迅論、魯迅批判がある。

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▲こうした経緯の中、冷戦=内戦構造の確立と共に、魯迅は禁書とされていったわけだが、その中でも魯迅の文学から大きな啓発を受け、みずからの文学形成に生かしていった陳映真のような作家もあった。だが80年代にふたたび魯迅を読むことができるようになっていった時、ひとつは高度消費社会の中での文学の位置の変化があり、また台湾の知識社会の構造転換もあって、魯迅は以前のような衝迫力を持たなくなっていったように見える。
▲本報告では、以上のような経緯をたどりながら、台湾文学と魯迅の関わりについて考えてみたい。

(坂井洋史整理)

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●第5回定例研究会(2008年10月4日/15:00〜18:00/一橋大学国際研究館4F共同研究室2にて)「三浦玲一氏によるフレドリック・ジェイムソンに関するレビュー」

▲2008年10月4日(土)、一橋大学東キャンパス国際研究館4階共同研究室2において開かれたプロジェクト第5回定例研究会では、三浦玲一氏(一橋大学大学院言語社会研究科准教授・アメリカ文学専攻)を講師にお迎えして、80年代中国大陸の文学研究、文化批評界に大きな影響を与えたフレドリック・ジェイムソンの第三世界文学とアレゴリーに関する論文をレビューして頂いた。参加者はプロジェクトメンバーのほか、他大学の研究者、本研究科院生など10名。三浦氏ご自身による、当日のレビューの要旨を以下に掲げる。当日は、15時〜17時15分まで三浦氏のレビュー、その後質疑応答、補足説明などが行われ、最後に11月のシンポジウム準備作業の現況が、プロジェクト責任者から簡単に報告された。

●報告要旨●

▲フレドリック・ジェイムソンの「多国籍資本主義の時代の第三世界文学」を中心に、彼の思想とこの論文が発表された時期を中心にした合衆国における左翼概念の変化を梗概した。
▲現代の視点から見るとき、この論文には主に三つの問題点があるように思われる。一つは、その中心テーゼである、「あらゆる第三世界のテクストは、必然的に、アレゴリカルである」、「それらは、私がナショナル・アレゴリーと呼ぶものとして読まれるべきである」(69)という主張が、第一世界の白人男性の知識人からなされたということ。二つ目には、「プルーストやジョイス」のようなキャノンがもたらす喜びを第三世界文学は与えないが、「彼らは未だドライザーやシャーウッド・アンダスンのような小説を書いているのだ」として「第三世界文学について沈黙してもなにも始まらない」(65)と述べるジェイムソンの意見が曖昧であること、 そして最後に、「アイデンティティの概念は不適切である」(78)としながら、「文化革命」(76)の概念を通じて、「第三世界文学は大文字の歴史を把握している」(71) と述べるジェイムソンの真意である。

▲この論文以降のジェイムソンの仕事を見ることで、以上の三つの問題には基本的な解答を得ることができる。「モダニズムと帝国主義」と『ポストモダニズム』の結論部において、彼は、広義のモダニズムの詩学は帝国主義時代の新しい空間の配置の結果と理解されるべきであり、モダニズム文学とは、第三世界植民地の不可視化を与件とした文学なのだと言う。このような「罪深い喜び」がモダニズムに見いだされるとき、彼のキャノンの評価の意味は明白になるし、そして同時に、この「白人男性」は「第三世界文学」のみを図式化しているのではなく、「第一世界文学」をも、全体化し、図式化し、理論的に解釈しようとしていることが分かるだろう。彼にとっては、ナショナル・アレゴリーのモデルは、むしろ、モダニズム文学をどのように読むべきかの規範として機能すべきものなのである。

▲アフマドのこの論文への有名な批判は、だが、以上のことをアフマドが理解しているかどうかではなく、むしろ、この時期を中心に、左翼の意味が、マルキストであることからマイノリティの人権活動家であることに変化したこと、右翼と左翼を分けるパラダイムが、イデオロギーの差異として語られるのではなく、アイデンティティについてどのような態度をとるかという軸へと移っていったことと、おそらく関係する。アイデンティティを拒否し、最終的に経済体制に結論をみるジェイムソンの議論は、ある意味、反ポストコロニアリズム的なのである。(三浦玲一)

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●第4回定例研究会(2008年7月26日/15:00〜18:00/一橋大学国際研究館4Fゼミ室1にて)
@文献精読(担当:坂井洋史):張業松「重読『吶喊・自序』」、「文学史線索中的巴金与魯迅」(共に著者からの提供原稿に拠る)
A討論
B11月8日開催日中国際シンポジウム「いま魯迅を読む」について

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●第3回定例研究会(2008年6月21日/15:00〜17:40/一橋大学国際研究館4Fゼミ室1にて)
@文献精読(担当:佐藤 賢):薛毅「論魯迅的雑文」(原載《視界》第13輯、2003年、河北教育出版社)
A討論

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●第2回定例研究会(2008年5月28日/16:00〜18:30/一橋大学国際研究館4Fゼミ室1にて)
@文献精読(担当:坂井洋史):薛毅「論魯迅的文化論戦」(原載《中国現代文学研究叢刊》2001年第3期)、同「魯迅与当代:就最近関於魯迅的争鳴答朋友問」(未刊稿)
A討論

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●第1回定例研究会(2008年4月30日/16:00〜18:40/一橋大学国際研究館4Fゼミ室1にて)
@言語社会研究科プロジェクト「中国現代文学研究ネットワークの構築」の運営について(プロジェクト代表・坂井洋史からプロジェクト、研究会の趣旨説明)
A文献精読(担当:阿部幹雄):カオ元宝「作為方法的語言〜“胡適之体”和“魯迅風”」(原載《文学評論》1998年第1期/『在語言的地図上』文匯出版社、上海、1999年1月、所収)
B討論

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一橋大学大学院言語社会研究科プロジェクト「中国現代文学研究ネットワークの構築」発足プレイベント

「張新頴氏(復旦大学中文系教授)を囲んで」ワークショップ レポート

 

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▲2008年3月25日(火)、一橋大学東キャンパス国際研究館4階共同研究室2において、本プロジェクト発足プレイベントとして、ワークショップ「張新頴氏(復旦大学中文系教授)を囲んで」が開催された。張氏の招聘はHitotsubashi Invited Fellow Programの助成によるものである。参加者はプロジェクトメンバーのほか、他大学の研究者、本研究科院生など12名。
▲張新頴教授は、1967年山東省招遠の出身。現在、復旦大学中文系教授、文学博士、博士生指導教授。中国現代文学研究会および中国当代文学研究会理事。コンテンポラリーな文学状況に対する文壇評論活動(2005年『南方都市報』主催「華語文学伝媒大賞」文学評論家賞)、中国文学のモダニティの特質と可能性に関する研究、馮至や穆旦をはじめとするモダニズム詩研究、沈従文、魯迅をはじめとする近代小説研究、と多方面において優れた業績を上げてきた。その研究は、巨視的な文学史把握と繊細なテクストリーディングをバランスよく結合したもので、将来本国の学界を担っていくことが嘱望されている存在である。
▲著書としては、『棲居与遊牧之地』(学林出版社、1994)、『岐路荒草』(上海人民出版社、1996)、『迷失者的行踪』(復旦大学出版社、1998)、『二〇世紀上半期中国文学的現代意識』(三聯書店、2001)、『火焔的心臓』(花山文芸出版社、2002)、『文学的現代記憶』(三民書局、2003年)、『黙読的声音』(広東教育出版社、2004)、『読書這麼好的事』(広西師範大学出版社、2004)、『沈従文精読』(復旦大学出版社、2005)、『双重見証』(江蘇教育出版社、2005)などがある。
▲今回の報告は前半(14:00〜15:30)、後半(16:00〜17:30)の二部構成で行われた。都合により、予告した前後半の順序を入れ替え、第一部は「従故人困境中体認歴史伝統中的“有情”―沈従文土改期間的一封家書」と題して、沈従文の家族宛書簡を、第二部は「瓶与水、風旗与把不住的事体:馮至『十四行集』第二十七首」と題して、馮至の代表作『十四行詩』最終首を、それぞれ解釈する内容の報告であった。
▲前半の報告「従故人困境中体認歴史伝統中的“有情”―沈従文土改期間的一封家書」は、1952年に四川省南部の土地改革に参加した沈従文が、妻と二人の息子に宛てた一通の書簡を採り上げ、同時期に書かれた他の書簡も参照しながら、激変する社会への〈適応/違和/拒絶〉の間で揺れ動く沈の内面に分け入ろうと試みた。張新頴氏は、趙樹理をはじめとする「土地改革文学」=「新興文学」が、目下の人事(「変」)を自然や歴史という「背景」(「常」=不変)と結合せず、複雑で活き活きとした現実を単純化しているとする沈従文の不満を手掛かりに、沈の生命と歴史に対する独自の理解を摘出していく。沈は、寂しく『史記』を読み、その内容よりむしろ作者に思いを馳せ、愛憎や情感を重んずる「有情」の態度で現実と歴史に向き合った作者と自らを同一視したという。「有情」は歴史上「事功」(世俗的な成功を重んじる功利思想、政治的プラグマティズム)と対立し、今もまさに「有情」は「事功」への奉仕を強いられているが、それは即ち、自我と現実の関係の再調整の強制であると、沈には考えられた。自らの認識や知識を育んできた五四新文化伝統に拠ってしては、もはや理解、対応することの不可能な、従来の自我との間に不調和や軋轢を生む他ない現実の重みを、悠久の歴史伝統の中に自我を系譜付ける(「有情」への同定)ことにより、辛うじて支えようとする、沈の思想的な抗いを、張氏は書信の丁寧な解読を通じて浮き彫りにした。『沈従文全集』刊行を期に、大量の家族宛書簡が公開されたが、本報告は、そのような新資料を、着実な手法で沈従文理解に活用したもので、今後の沈従文研究展開の方向性と可能性を指し示してくれたといえよう。
▲後半の報告「瓶与水、風旗与把不住的事体:馮至『十四行集』第二十七首」では、この詩を三種のテクストとの対比から解読した。張氏は先ず三歳の子供の“水の形”に関する無邪気な問いに誘われた瓶/水の関係についての思索を披瀝し、不定形のものに形を与えたいという人間の衝動は、啓蒙思想以来、モダニティを支配してきた世界の矮小化/“把住”の欲望に淵源すると解釈した。第二のテクストはWallace Stevens(1879-1955)Anecdote of the Jar(1923)であり、jarと“風旗”が共に荒野に置かれ、周囲の諸々が“中心点”を目指して殺到するという設定の酷似を指摘しながら、馮至の“風旗”のイメージは、より高く/遠く/広い世界へ自らを開いていく渇望の自由と活発さを象徴しており、スティーヴンスのjarが周囲を屈服させる傲慢さを示し、野蛮に対する文明、現実に対する芸術の優位を主張するのに比べ、より優れているとした。第三のテクストは魯迅「這也是生活」。『十四行集』第十一首において、魯迅を時代の外に排除されているとしたのは、最晩年の魯迅が「這也是生活」で示した世界との関係保持の意欲に照らして不適切であり、むしろ第二十七首における“風旗”の屹立のイメージこそ、魯迅の精神のあり方をよく象徴しているという見解を示した。
▲上記の二報告終了後、短い時間ながら質疑応答が行われた。第二報告に関して、馮至研究の専門家である佐藤普美子氏(駒澤大学)は、馮至とスティーヴンスの関連の指摘、両者を対比して解読することの独創性を特に評価した。木山英雄氏(本プロジェクトメンバー)も両者の比較について、共に象徴的な手法を用いながらも、前者がそのような手法を通じて世界に触れたいという開かれた渇望を表現しているのに対し、後者が象徴そのものをメタに主題化しているという差異を指摘、馮至の活発さを当然のことであろうと補足した。

(坂井洋史整理)

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