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研究科概要

言語社会研究科とは

位置づけと抱負――研究科長からのメッセージ

大学院言語社会研究科は、「社会科学の総合大学」を標榜する一橋大学にあって唯一、人文学を事とする大学院です。下に学部を持たない、修士課程・博士課程のみの独立大学院として、1996年に設置されました。それから二十有余年。時代の流れは大きく変わろうとしています。

人文知は、もともとその境界がはっきりしないものです。長く生きていれば誰でも自然に身につけてゆく「人生の知恵」との境目が果たしてあるのか、どこにあるのか。「人文学の価値はどこにありますか?」――そう訊かれて、ただちに正しい唯一の答えを提出できる人文学者などいません。それはほとんど「人間の存在価値はどこにあるか」という問いと同義だからです。さらにいえば、「わたしは、生きていていいのか」というような深刻な問いに対しても、正しい答えを外から付与するすべなどありません。社会科学では解決できない、あるいは解決できそうにない問題に直面したとき、その問題とともに生きることをどのように捉えるか、その答えはあくまでも個人がみずから導くしかないのです。しかし、そのさいの手がかりと、スキルと強靭さとを、ひょっとしたら人文知が用意してくれるかもしれない――と、そんなようなことを伏し目がちに答えるのが、かつては正直な人文学者の常でありました。「粘り強く、長く勉強していれば、そのうちわかる」と。

曖昧なものごとを精緻に言語化するのが、人文学のわかりやすい責務のひとつではありますが、人文学の責務なるものの全体については、誰もがそのように長らく言語化をためらい、あるいは怠り、あるいは慎んできました。しかし今やそれでは済みません。「社会的インパクト」「研究成果のアウトカム」という形で、学問自体の価値の言語化を強く求められてきています。「論理的思考力を養う」とか「種々の問題に多面的な観点から取り組む力を獲得する」「歴史に学んで問題解決力を身につける」とかそんな教養主義的理念を振り回してももう通用しません。問われているのは端的にいえば「大学運営のために税金を払うに値するいかなる具体的価値を提供してくれるのか」であり、貧しくなってしまったこの国において、なけなしのリソースを割くだけの意義が果たして人文学にあるのか、その答えなのです。そこで私たちはいったいどう答えるのか。世の趨勢に迎合しつつ、あれこれの役に立ちます、こうした方面で有益です、と、ニッチを探して、あるいはかろうじていくつかの目立ったポイントを挙げて生き残りをはかるのか、それとも、もっと大きな、人文学全体を包括するような意義を提出することを、今ようやく試みるのか? 果たしてそれは可能なのでしょうか。

紙媒体から電子媒体/オンラインへの移行の趨勢はこの間のコロナ禍を介して決定的なものになりました。古来紙墨とともにあり、みずからを切磋琢磨しつつ広く流通展開する場として印刷媒体の興隆と定着のプロセスに深く参与してきた人文学が、骨がらみに密着し続けている媒体の凋落とともに足場を見失って動揺の極致にあることは、何らいぶかしむべきことでもありません。大学のみならず、言語と社会の様相全体が大きく変化しようとしている現代はむしろ、人文学にとって、みずからの拠って立つ社会基盤を根本的に見つめ直す好機です。

人文学の裾野は長く遠く、広大な荒野へつながっていますが、その道筋には都度々々の花が咲き乱れ、川が流れ砂が渦巻き、旅する者は時に稲妻に打たれ、嵐や吹雪に踏み迷う、その多様性は、この地球世界が持つ生命と風土のそれと同断です。自然科学がその多様性を直接相手にするものだとすれば、人文学はその多様性の中で生きてきた人間の、同様に多様な営為を相手にします。それらの営為が後に残したものを、テクストとして読むこと、そして読解の結果を、今の言語にして書くこと。言ってしまえばそれだけが人文学の索漠たる営為で、それが行われるのは荒野――しかしながらそれは、絢爛たる荒野です。

世界を記述せよ、そして自身を知れ。

2022-24年度研究科長 武村 知子