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機関活動

国内機関との連携

くにたち公民館との連携活動

2016年3月に、一橋大学が位置する東京都国立市の公民館と言語社会研究科の間で、「連携協力のための覚書」が正式に取り交わされました。すでに国立市と一橋大学の間には数年前から協力協定が結ばれていますが、それとは別に、今回の覚書がめざすのは、現在すでに遂行中のいくつかの連携企画を今後も最も良い形で継続し、さらなる発展可能性の芽を育てていくための、具体的な連携です。

2013年以来、一部の教員および大学院生を中心に、公民館と、市民のかたがたとの協同によるささやかな企画がヴォランタリーに試みられてきました。大学という囲いの外へ踏み出て、大学院における多様な学問の営みを、すぐ外側にひろがっている地域社会の営みに、広くは世間というものに、どうしたら自然に、楽しく、互いにとって有益な形でしなやかに接続できるだろうか? その手さぐりの試みが、今回の覚書取り交しを新たな手がかりとして、さらに広く遠くまで届くようになるならば、それはこのうえなく嬉しいことです。

同じく2016年度に創立20周年を迎えた言語社会研究科は、教員総勢16名の小さい所帯です。他方、国立市公民館は、その緊密・親密なたたずまいが言社研と手を組むのに一見ちょうどの規模にも見えながら、その伝統ははるかに古く、筋金入りの公共活動母体です。連携によって学び得るものは、私たちのほうがはるかに大きいに違いありません。

現在のところ、主な連携活動は、「大学院生講座」と「一橋大学連携講座」の2本です。

大学院生講座

言語社会研究科、ないし場合により一橋の他研究科に在籍中の大学院生を、年に2~3回、公民館に講師として派遣し、前後2回ずつの講義を行ってもらいます。講義とディスカッションにおいて市民と大学院生の交流をはかり、市民の生涯教育に寄与するとともに、大学院生に研究上の刺激と場の広がりを与え、キャリアを積ませることを目的としています。人選、および講義内容等は、随時募集した上で、公民館と研究科の協議によって決定し、詳しい講義内容・形態については、協定者双方の意図に適うよう、公民館担当者の了承を得つつ研究科教員が指導を行います。

これまでのテーマ一覧(「国立市公民館だより」より)
2022年11〜12月 Konzert(コンツェルト)のかたち――音楽家メンデルスゾーンの功績

「クラシック音楽」と聞いて何を思い浮かべるでしょうか。バッハの受難曲? ベートーヴェンの協奏曲? シューベルトの交響曲? 現代の演奏会ではこうした「古典」の作品が演奏されますが、19世紀のコンサートは流行音楽が奏でられる場でした。演奏会に「古典」の音楽をもたらす契機となったのは、19世紀の音楽家フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディの活動です。ドイツ語では「演奏会(コンサート)」も「協奏曲(コンチェルト)」も共にKonzertといいますが、本講座では、演奏会の花形であるKonzert(協奏曲)を例に挙げ、Konzert(演奏会)の改革者メンデルスゾーンの功績を辿ります。

前篇では、メンデルスゾーンの生涯や19世紀の演奏会事情について整理します。後篇では、メンデルスゾーンの協奏曲の構造から、彼の目指した演奏会を考えていきます。

2022年7〜8月 背景を超えて――展示空間が美術作品に関与するとき

美術はどこで鑑賞しますか?美術館、博物館?駅や公園、街の中?美術作品と展示空間の関係について考えます。

前篇では、中世の王侯貴族たちの宝物殿から、20世紀に登場する真白な壁面に作品だけを配する「ホワイト・キューブ」まで、西洋における展示空間の変遷をたどりつつ、従来の絵画や彫刻の枠組みを大きく飛び出した美術作品にも注目します。後篇では、近年盛んな、歴史的建造物を用いた展示について、フランスはヴェルサイユ宮殿美術館の事例から、政治・文化的な意味をもつ場所へ美術作品が置かれるときに生じる賛否両論をご紹介。美術作品が建造物と呼応する時、いったい何が起こるでしょう?

2021年1月 「親日」って何だろう? Vol.2――台湾映画にみる対日意識

近年、台湾人の「親日」が様々なところで言われています。しかしそもそも「親日」とはどういうことなのでしょう?

この講座では、台湾映画史上最大のヒット作であると同時に、「親日」映画と言われ多くの議論を巻き起こしてきた魏徳聖(ぎ とくせい)監督の映画『海角七号』(2008)を題材に、台湾の歴史や文化を参照しつつ、それが台湾人の眼にどう映り得るのか、ひいては台湾における「親日」とはどういうものなのかを考えていきます。特に今回は、昨秋の院生講座で挙げられた意見・質問に対する応答や、同じく「親日」映画と言われた侯孝賢(ホウ シャオシェン)監督の『悲情城市』(1989)との比較を盛り込み、さらに映画の映像面だけでなく音響面にも注目していきます。

複雑な背景を持つ台湾と台湾人について、この機会にご一緒に学びましょう。

※ 2020年秋に開催した院生講座の続篇ですが、初参加の方も大歓迎です。もし時間があれば、事前に台湾や『海角七号』に関して軽く調べてきてくださると、より理解が深まると思います。

2020年10~11月 「親日」って何だろう?――台湾映画『海角七号』にみる対日意識

近年、台湾人の「親日」が様々なところで言われています。しかしそもそも「親日」とはどういうことなのでしょう?

2008年公開の魏徳聖(ぎとくせい)監督の映画『海角七号』は、台湾映画史上最大のヒット作であると同時に「親日」映画と言われ、その日本表象が多くの議論を巻き起こしてきました。他方、魏監督は様々な場所で、日本と台湾が対等であることへの思いを口にしています。その思いは『海角七号』にどう映し出されているのでしょうか? そしてそれは私たちの思う「親日」と合致するものでしょうか?

この講座では台湾の歴史や文化、社会調査の結果なども参照しつつ、魏監督の日台の対等性への思いが映画にどのように反映されているのかを読み解いていきます。台湾映画、そして台湾人や台湾という存在についてご一緒に考えてみましょう。

2020年8月 『鳩』が映すもの――60年代以前のチェコスロバキア映画

1960年、チェコスロヴァキア(当時)で公開された映画『鳩』。少年と鳩を巡る、映像と音の実験に満ちた映画です。冷戦期にもかかわらず、東西両陣営の映画祭で等しく好評を得た稀な作品の一つでした。なぜこの映画は分断を超えて成功できたのでしょうか。

鳩、という形象が平和のシンボルとして定着してきたこのころ、映画『鳩』は銀幕に何を映したのか、人々はそこに何を投影したのか。本作で長編デビューを飾った巨匠ヴラーチル監督による、画面構成やイメージの扱いに技巧を凝らした映像をご覧いただきながら、現地の戦後映画史をふりかえり、知られざる映画の魅力を探ります。

2019年9~10月 中国・明代の喫茶文化 ~水と文人の隠逸思想~

おいしいお茶を淹れようとしたらみなさんは何に気をつかうでしょう。茶葉?器?それとも気のおけない友人?

16世紀の中国では、ポイントは「水」でした。当代随一の文人・文徴明と仲間たちは、名高い湧水「恵山泉」をはるばる訪れ、その探訪の感慨を詩文や絵画に残しました。

杯の茶のために名水を求めるのは、当時一流の「教養」の形をも体現するものでした。講座前編では、水と茶に傾倒しながら深い教養を示した文徴明の詩画と、その隠逸の思想についてお話しします。後編は文人の隠逸思想を込めた水の論述をひもときながら、実際に台湾茶芸も披露します。

2019年2~3月 この女(ひと)を見よ――サラ・コフマン自伝『オルドネル通り、ラバ通り』を読む

1942年、ナチス占領下パリ、18区オルドネル通り。

哲学者サラ・コフマンは7歳でした。父はアウシュヴィッツ強制収容所へ連行され、自身も、母とともに、同区ラバ通りのフランス人女性のもとに身を隠すことに。

父の不在。実母と養母−異なる伝統を持つ二人の母−との葛藤。自伝『オルドネル通り、ラバ通り』には、ユダヤ人迫害を生き延びた少女が、自らの人生を選択し、哲学者となるまでが描かれています。傾倒していたニーチェ生誕150周年の1994年に自ら命を絶つまで、多くの書物を残したコフマン。この自伝が事実上、最後の著作となりました。

本講座では、草稿を参照しながら自伝を読み解き、コフマンの幼年期とやがて育まれた「私」自身の生を肯定する思想との間に秘められた関係を明らかにします。前半では、彼女の父との、後半では、二人の母との記憶を辿ります。

2018年9~10月 上海モダニズム作家たちの葛藤

1930年代の上海に生きた二人の男、施蟄存、杜衡。二人は中学からの同級生。ともに文学を好み、仲間たちと文芸誌をいくつも立ち上げました。しかし当時の上海は、戦争真っただ中。1932年1月には、第一次上海事変が発生し、戦場と化した上海で、ほとんどの雑誌は停刊となります。

出版社の現代書局は、再建をかけ、施蟄存に大型商業雑誌『現代』の編集を依頼します。要求されたのは政治的「中間路線」。施蟄存は、杜衡に編集の協力を要請します。しかし、政治と文学の間、「中間路線」は容易ではありません。

前半は、施蟄存、杜衡らが評される「上海モダニズム文学」を、他の都市の作品と比較しつつ解説します。後半は、杜衡が『現代』誌上で起こした「第三種人論争」と、彼の創作を追い、杜衡が文壇に与えたものは何か、考えます。

2018年5月 昆虫採集の光と闇

昆虫採集というと何を連想しますか? 夏休みの自由研究? 教科書で読んだヘッセの『少年の日の思い出』? あのミステリの犯人?! 昆虫採集は西欧で誕生しましたが、日本ほど大衆に受け入れられた例は他に類を見ないと言われます。かつては学校教育で奨励され、健全で有益な趣味として大人にも浸透していました。本講座では昆虫への関心が社会現象となった昭和初頭の「昆蟲黄金時代」を中心に書物をひもとき、是非や善悪を問うのでなく光と闇という切り口で昆虫採集を見つめ直します。

前編は昆虫採集が社会的地位を得るに至った「光」の面を検証し、後編は「昆蟲黄金時代」と同時期に花開いた「エログロ・ブーム」、戦争との関係、フィクションに現れる昆虫コレクター像などから「闇」の面に迫ります。

2017年11月 「ジャック・デリダと「遺産相続の哲学」

フランスを代表する哲学者ジャック・デリダ。没後10年を過ぎ、彼が遺した膨大な「遺産」からの呼びかけはますます強まっています。これは決して比喩ではありません。ひとの「遺産」を受け取るとはどういうことか ――そんな哲学があったとしたら?

知らないうちに、重い責任を伴う莫大な遺産の相続人にされていたら、どう振舞ったらいいのでしょうか。うれしい? こわい? 心はどうなる?

本講座では、デリダの思想を「遺産相続の哲学」と捉え直して語ります。前編で初期の著作を参照しながら地ならしをした上で、 後編では、デリダが残した哲学に ついて、一人の「相続人」としてお話したいと思います。

2017年7月 「「人間の性質」の改良の思想――優生学を考える」

20世紀、ユートピア的な「すばらしい新世界」を約束する学問・思想が世界各地で影響力をもっていました。それはなんと「人種改良」「人間改良」を目指す優生学でした。各地で「ふさわしい家族コンテスト」や「優生結婚相談」が実施され、「劣った人間」の数を減らすために差別的な法律(断種法)が成立しました。優生学はなぜ世界各地で広がり、人々はなぜこの思想に魅力を感じていたのでしょうか。優生学の考え方に基づいた強制不妊手術は20世紀末になっても行われていましたが、その歴史に照らしたとき、例えば現在の出生前診断をどう考えるべきなのでしょうか。

本講座では、これらの問いについて考えます。初回は優生学のあらゆる側面について取り上げ、2回目は日本の断種法や戦後日本で行われた優生手術について検討します。

2017年3月 「忘れられた画家――抽象表現主義前夜の「美術」をめぐって」

第二次大戦後、美術の中心はパリからニューヨークへ移ります。以降、一見するとペンキを撒き散らしたような絵が、新しい芸術として価値付けられたことは、よく知られるところです。しかし、その前史にどんな絵が評価されていたかを知る人は少ないでしょう。この講座では、戦時中に活躍した二人のアマチュア画家に注目します。彼らは晩年になってから独学で絵を描き始め、すぐさま脚光を浴びた特異な存在でした。しかし、戦後の潮流に乗ることなく、忘れ去られます。誰が、何が、美術を美術たらしめるのか? 絵を「美術化」させる作用に注目します。初回はモリス・ハーシュフィールド、2回目はジャネット・ソーベルという、知られざる二人の画家を取り上げます。

2016年12月 「日本は「見える」のか?――「異文化」としての日本と翻訳の問題」

『菊と刀』は日本文化を説く有名な著作ですが、著者のベネディクトは実は日本をその目で「見た」ことはありませんでした。一方、1964年の東京五輪の時にはカメラマンが日本を「見せよう」として詰めかけました。

見たこともない異国を言葉で、映像で描く試み。未知の「異文化」を捉えようとするとき、言葉と同じく視覚的イメージもまた、「翻訳」という厄介な問題にさらされます。本講座では、初回は『菊と刀』、二回目は『不思議なクミコ』というフランスの東京五輪記録映画を取り上げ、言語とイメージこもごもの「翻訳」の複雑さと面白さに迫ります。

2016年5月 「近代中国における自伝の誕生」

1930年代、中国では、現代文学が多様化していくなか、自伝が新たなジャンルとして注目されました。政界、文壇で活躍した人々がこぞって自伝を書き始めます。中国の近代化に貢献してきた知識人たちが、なぜ一斉に自らの人生を語り始めたのでしょうか。中国の古く深い歴史の中で「知識人」とその文学が果たしてきた役割を辿りながら、近代中国における自伝の誕生の意味を探ります。

2015年12月 「「故郷」とはいかなる場所か? ――『苦界浄土 わが水俣病』と流民の故郷」

「故郷」という言葉からみなさんは何を思い浮かべますか? その人の経験の中で積み重なった土地と人との結びつきの中に、それぞれの「故郷」のイメージがあるでしょう。

水俣病事件を世に知らしめた石牟礼道子の『苦海浄土 わが水俣病』の中でも、「故郷」という言葉は、被害と加害の複層的な交差の中に生きることの意味を描くための鍵語となっています。この講座では、水俣病事件の歴史に伏流する「故郷」の思想的な意味を、石牟礼作品を通して探ります。

初回では60/70年代の石牟礼作品を中心に、第二回では同時代の「故郷」や「村」をめぐる思考を照らし合わせながら、考察を行います。

2015年5月 「救いをもたらすのは一体誰?――オペラにおけるフィナーレの変遷」

愛する人との離別、バレちゃった不倫。神様のきつい命令、迫る契約、ああ困った困った。でも物語の上でなら、誰かがきっと救けてくれる!

オペラも、長い間人々のそんな期待に応えてきました。納得の「めでたしめでたし」に向けてトラブルを解決し、人々を救いに訪れるのは、神か、はたまた英雄か? その設定は時代にあわせて実はどんどん変わってきました。初回はモーツァルト、2回目はワーグナーを取り上げ、二人の偉大な作曲家がそれぞれ選んだ「救済者」を吟味しながら、隠れたメッセージと時代診断に耳傾けます。

2015年3月 「テレビに宇宙人がやってきた! 初期ウルトラシリーズから迫る“本格特撮テレビ映画” の正体」

来る2020年の五輪開催地が東京に決定しました。

今から約半世紀前、1964年の東京五輪から生まれた流行語「ウルトラC」にちなんで命名され、1966年にテレビ放送された『ウルトラQ』は、日本初の本格特撮テレビ映画すなわち特撮を主役とするフィルム製作のテレビドラマでした。当時一世を風靡したテレビ映画とは、本格特撮テレビ映画の新しさとは、いかなるものだったのでしょうか。

初回は『ウルトラQ』の中から「2020年の兆戦」という名のまるで予言のような一話を徹底解剖し、第2回は『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』を中心に、「地球」とテレビに来襲する宇宙人の系譜を辿りながらその問いに迫ります。

2014年10月 「世にも奇妙な小津映画―― 揺れない列車と鳴り続けるピアノ」

小津安二郎の映画は、日本人の日常生活を描いた「静かなホームドラマ」とよく言われます。ところが、この静けさの中で実は奇妙なことが起こっていることはあまり知られていません。この講座では、小津映画の奇妙さに注目し、音と映像を仔細に見ながら小津映画の仕組みを考えます。

初回は列車のお話。『父ありき』を題材に、揺れない列車内の画面から小津映画独自の規範を明らかにします。2回目は、『秋日和』の繰り返されるピアノ音楽から小津映画のサイレント性を明らかにします。

2014年5月 「建築と映像――光と影から見る建築」

街にあふれる建築物。その一つ一つの連なりが、街や都市の景観をつくっています。そんな建築物が求める「光」は何をどのように見せ、そして何を隠してしまうのか。

初回は、第二次世界大戦前の欧米の映画や映像をもとに、現代に通じる近代建築が求めた「光」と、その光が生み出した都市の「影」を見つめます。ル・コルビュジエの作品を題材にします。

2回目は、現代映画を用いて、「光」の裏側である「影」から、建物そして都市の景観を考えてみたいと思います。

2014年2月 「映画の音響効果学――見えない声から何かが見える?」

音楽、効果音、ナレーションなど映画はさまざまな音響効果に彩られています。この講座では、映画を「見る」ときに忘れられがちな音声に注目し、音声から映画の仕組みを考えます。

入門編の初回はホラー映画のお話。見えないおばけの声を頼りに無声映画から現代まで映画史をたどっていきます。2回目は講師ご専門の原爆映画のお話。1950年代の原爆映画に込められた、平和や教育などの願いを映画音楽から分析します。

一橋大学連携講座

これまでのところ、公民館の連続講座枠にのっとり、平成26、27、28年度と引き続いて1~3月に5回連続講座を行いました。大学院教師・学生、市民および場合により外部講師が協同して、講義・ワークショップ・ディスカッションを複合的に取り入れることで、市民と大学院の交流をはかりつつ、特定のテーマに関してスリリングな考察を深めます。市民の生涯教育に寄与するとともに、学生に柔軟な視野と経験を与え、双方に対して、大学という枠を超えた人文学の射程の広がりを呈示します。

これまでのテーマ一覧(「国立市公民館だより」より)
2023年2〜3月 フランス菓子の魅惑――夢と奈落

洋菓子店のお菓子にはフランス語の名前がついたものがたくさんあります。マドレーヌ、サブレ、シュ・ア・ラ・クレーム。お洒落な名前にフランスの香を感じる人も多いでしょう。ではそもそもフランス菓子とは?他の国のお菓子といったい何が違うのでしょう?たとえば、ガトー・オ・ショコラ。アメリカのブラウニーやオーストリアのザッハトルテ、はたまた「チョコレートケーキ」一般との違いはなんでしょう?

この講座では、ここ国立市でパティシエの養成に携わっておられるフランス菓子作りの専門家・喜多村さんをお招きして、お話と実習と通してフランス菓子の特徴と歴史を学び、さらにはその魅力を探ります。また別の手がかりとして、フランスの映画監督エリック・ロメールの映画を参照します。ロメール映画でのお菓子の役割は、甘く華やかなものばかりではありません。時に物語のシビアな側面と結びつき、階級の問題も見え隠れ。一筋縄では行かないフランス菓子の一面が表れています。

講師:喜多村 貴光(エコール辻 東京)、正清 健介(一橋大学)
2022年2月~3月 「時代劇」を振り返る――「生き死に」の型、人の世の夢

戦後しばらく、日本映画の半数は「時代劇」だったといわれます。2000年以降の時代劇と、黄金時代の時代劇とは、見ていてどこか違うけれど、いったい何が違うのか? かつてのファンは、次々と作られる一見大同小異のドラマのどこに、尽きぬ興味とを見出していたのでしょう?

いつからか時代劇が軽視されるようになったのは、それが「型にはまった」お決まりごと満載のドラマだから。でも「型」とは一体何でしょう? 物語の型、人物の型、所作の型、映像と音声の型、よく見ると種々様々な「型」が絡まった複雑なネットワークのようなものが、時代劇世界全体を支え躍動させてきたことがわかります。時代劇が「国民的娯楽」だったころ、それは人々の目にどのように映っていたのか、そして今はどのように映るのか。この講座では、いろいろな映画やドラマの断片をご一緒に見て、その「見えかた」について世代を超えた意見交換を行い、時代劇史を参照しながら、かつての魅力とその崩壊について考えます。下の予定はあくまで予定。皆さんの興味関心次第で、思わぬ展開をするかもしれません!

講師:武村知子(言語社会研究科)/ディスカッション・アシスタント:言語社会研究科院生有志6名
2020年11月~2021年2月 4人の写真家との対話――光の波紋が残すもの

写真は時に社会や個人の記録であり、また時に写真家個人の作品でありながらも、実はそのいずれにも抵抗を示す独特で奇妙な媒体として発展してきました。

世界の軌跡を光の波としてその表面にたたえる写真は、写真家たちにとって力を秘め、時間を切り開き、また文学や絵画との共振を可能にするメディウムでもあります。

この講座では、気鋭の写真家および写真で制作を行う美術家をおまねきし、一橋大学言語社会研究科の大学院生を交えて対話を行います。写真家本人の写真や作品も公開しながら、実作者たちの思考を大学院生とともに掘り下げていきます。受講者の皆さんとの対話時間もたっぷり設けた、双方向型の講座です。

なお今回の一橋連携講座は、昨年度の春に5回連続で企画しながら、このたびの思わぬ災厄によって途中で頓挫した連携講座「写真をめぐって」のリベンジ版! 今度こそ、どうぞ最後までお楽しみください。

講師:川崎祐(写真家、一橋大学言語社会研究科卒)、藤岡亜弥(写真家)、仲宗根香織(写真家)、根間智子(美術家・写真家) /監修:井上間従文(言語社会研究科)
モデレーター:瀬川琢磨、松澤優、井上絵美子、松田潤(言語社会研究科在学生・修了生)
2020年2~3月 写真をめぐって――光の軌跡、社会の痕跡

写真は19世紀初頭にフランスとイギリスで発明されて以来、時に社会や個人の記録であり、また時に写真家個人の作品でありながらも、実はそのいずれにも抵抗を示す独特で奇妙な媒体として発展して来ました。

三人の講師が異なる視点から捉光の軌跡をさざ波のようにたたえた表面としての写真は、その波紋を近現代の 政治と社会、都市、絵画や文学、さらには歴史や時間の概念に幾重にも及ぼして来たと言えます。

今回の連携講座では一橋大・言語社会研究科所属の2名の若手研究者と研究科卒業生を含む3名の若手写真家・美術家がそれぞれの視点から「写真」をめぐる多様な思考と実践をみなさんに紹介します。

写真家本人の作品を含む数多くの写真や映像も公開します。受講者の皆さんとの対話時間も含む、双方向型の講座となります。

講師:井上絵美子(言語社会研究科)、松澤優(言語社会研究科)、仲宗根香織(写真家)、川崎祐(写真家、一橋大学言語社会研究科卒)、根間智子(美術家・写真家) /監修:井上間従文(言語社会研究科)
2019年3月 「広島」をめぐる知のプリズム ~語り・空間・映像~

人類史上はじめて核兵器の災禍に遭った広島は、反戦平和の言論や災害復興の法制度、文学や映画の題材など、様々な分野で象徴的な意味を担ってきました。こうして広島に張り巡らされた知のネットワークを多様な学問が読み解いてきましたが、研究方法や視座の違いによって「広島」や「原爆」の見え方は決して同じになるとは限りません。

三人の講師が異なる視点から捉えた「広島」。――被爆者のイメージや都市空間の重層性、被爆体験の継承。その乱反射のなかで改めて「平和」や「被爆」に関する規範的な価値観を見つめ直します。

講師:片岡佑介(言語社会研究科)、松尾浩一郎(帝京大学)、根本雅也(立命館大学) /監修:片岡佑介
2018年3~4月 「<分類>について考える ~くにたち文教マッピングに向けて~」

2017年に開催した5回連続講座「街角にいつも大学がある~くにたち文教マッピング~」では、参加者のみなさんと一緒に、市内の様々な「学びの場」について調べました。公民館講座やサークルをはじめとして、街では日々、多くのことが学ばれています。

他方、市内の二つの大学でいつも何が学ばれているのか、知る機会は実は多くありません。街と大学が切り離されていては勿体ない! ふたつの学びを重ね合わせて、トータルな「くにたち文教地図」を見てみたい。そんな野望を、「くにたち文教マッピング」は抱いています。

今回は第二弾のためのイントロとして、「分類」という行為について考えてみます。植物や動物と同じように、「学問」にも分類があります。公民館講座も種類別に「分類」されていますし、図書館の本も「分類」されています。人はなぜものを分類するのか、分類とはどういう意味を持つ行為なのか。一見細かい「分類」」が背後に持つ壮大な世界へご案内します。

ゲストスピーカー:長名大地(一橋大学図書館員)
2017年1~3月 「街角にいつも「大学」がある ~くにたち教養マッピング~」

くにたちという町のあちこちで、毎日いったい幾つの「講座」や「研究会」や「勉強会」が開かれているか、みなさんはご存じでしょうか? 公民館主催のものだけでも、年間300を超える回数の講座があります。自主的な小さいグループや、単発のイベントなども含めたら、一橋大学全体の授業の数よりずっとずっと多いかも!

いつどこで誰が何をこつこつと学んでいるか、大学では大学の、町では町の「学問地図」が描けるはず。学府のうちそとの「学問地図」を重ね合わせてみたら、もう一枚の「くにたち文教地図」が見えてくるのではないでしょうか。この講座ではそんな探究をしてみたいと思います。

ゲストスピーカー:大河内泰樹(社会学研究科)、筒井泉雄(商学研究科)
2016年1~3月 「「クリーン」なものと「クリーン」でないもの ~今日の不寛容について考える~」

アルコール消毒薬や空気清浄機を当たり前のように街で見かけることが増えています。脱臭・脱毛大流行、ケーブルTVは健康グッズのCM満載。こうした清潔や健康の推奨は、都市整備や公衆衛生の歴史を振り返ると、不潔や不審とみなされたものの排除と表裏一体の関係にありました。「クリーン」なものは、今日の社会の「不寛容」に一体どのような影響を及ぼしているのでしょうか。

昨年度の教育講座「「寛容」について学び、伝え、考える」から一年。この講座では、皆さんと一緒に「クリーン」に潜む倫理観や美意識、怖れを手掛かりに現代の「不寛容」について考えたいと思います。

ゲストスピーカー:糟谷啓介(言語社会研究科)  監修:片岡佑介(博士課程)
2015年1~3月 「「寛容」について学び、伝え、考える」

「寛容」について考えさせられる話題やニュースが近年増えてきているのではないでしょうか。「許さない」「許せない!」そんな言葉があふれるなか、「不寛容」を批判する言葉もよく目にします。現代社会で求められている「寛容」とはどのようなものなのでしょうか。

一昨年の「地域活動入門」講座からできたグループでは、市民と一橋大学大学院のメンバーが道徳教育について考える時間を約1年間重ねてきました。2018年度から小中学校で「道徳の時間」が教科化される見通しであることなども背景に、この講座では、皆さんと一緒に現代の「寛容」について考えたいと思います。

ゲストスピーカー:山中弘(筑波大学)、藤野寛(元・言語社会研究科、現在國學院大學)