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Korea Foundation One-Day Forum Vol.1 越境・混淆・共生――東アジアにおける文化生成 【報告】

ポスター
  • 日時:2020年2月11日(火・祝)13:00~
  • 場所:一橋大学東キャンパス国際研究館4階 大教室
  • 主催:一橋大学大学院言語社会研究科
  • 協賛:韓国国際交流財団
  • 予約不要、入場無料(最大収容人数80名)
プログラム
開会の辞
尾方一郎(言語社会研究科長)
第1講
「移動と創作言語から見る金史良文学の生成――北京での「漫遊」をめぐる二言語の随筆を中心に」
講師:高橋梓(言語社会研究科非常勤講師)
司会:三原芳秋(言語社会研究科教授)
第2講
「ベトナムの自画像――東アジアと東南アジアの狭間の薬と医学」
講師:小田なら(千葉大学グローバル関係融合研究センター特任研究員)
司会:安田敏朗(言語社会研究科教授)
第3講
「非文字文化としての中国芸能研究」
講師:吉川良和(言語社会研究科特任教授)
司会:坂井洋史(言語社会研究科教授)
全体討議
報告

2020年2月11日、一橋大学国際研究館にて、Korea Foundation One-Day Forum「越境・混淆・共生――東アジアにおける文化生成」が開催された。尾方一郎言語社会研究科長が開会の辞で述べられたように、2020年に設立24年目を迎えた言語社会研究科はその初期から東アジア研究に重点を置き、また研究スタッフの拡充や交流に努めてきた。今回のシンポジウムのテーマである「越境・混淆・共生」は、こうした背景と蓄積をもつ言語社会研究科にふさわしいテーマ設定であると言える。一橋にゆかりのある三人の方々から、最新の研究成果を踏まえつつ、韓国・ベトナム・中国におけるそれぞれの「文化生成」についてご報告があった。

第1講

最初に、高橋梓氏が「移動と創作言語から見る金史良文学の生成――北京での「漫遊」をめぐる二言語の随筆を中心に」と題して、朝鮮人作家金史良の創作過程について移動の経験および二言語創作の二つの観点から報告をなさった。まず、金史良の経歴が簡単に紹介された。そこでは、とくに二つの「移動」、すなわち(1)1930年に当時在学していた平壌高等普通学校を退学処分になった後の渡日および(2)東京帝国大学卒業後の1939年3月末から4月にかけての北京漫遊が強調された。とくに後者の北京漫遊については、朝鮮語と日本語の二言語それぞれで書かれた随筆が残されており、これが本報告のメインの対象となった。

それではなぜ二言語随筆を対象として取り上げるのだろうか。高橋氏は本報告の狙いを明示するために、研究の背景を以下のようにまとめる。1930年代から40年代にかけては帝国日本による朝鮮人の日本人化政策が進められており、その結果として日本語で創作する朝鮮人作家が増えた。こうした朝鮮人作家の日本語創作は、1945年の解放後長らくタブー視されることになる。その後、はじめての体系的研究である林鍾国の『親日文学論』(1966年、邦訳1976年)によって、朝鮮人作家の日本語創作は「親日文学」として扱われる。そこでは、《植民地期の朝鮮人作家の日本語創作は帝国日本の軍国主義的ファシズムの論理を主体性なく反復したものだ》という見解が示された。これは親日/反日、協力/抵抗の図式で朝鮮人作家の日本語創作を評価するものである。しかし、近年の研究ではこうした枠組みを問い直す作業が行われている。尹大石の『植民地国民文学論』(原著2006年)によれば、植民地期の朝鮮人作家の日本語創作はけっしてファシズムの論理の没主体的な反復ではない。それはむしろ、帝国日本が求めた「国民」の再定義を植民地の文脈で再構成するものである。それゆえ、植民地期の朝鮮人作家の日本語創作は、帝国日本の「国民文学」に一方的に包摂されるものとしてではなく、そこからの差異やズレを含むものとして捉え直される。高橋氏はこの議論を受けて、金史良の創作を、親日/反日の枠組みでは捉えられない試行錯誤の過程として理解する。

さらにそこで注目されるのが、第一に移動の経験であり、第二に二言語創作である。高橋氏が移動の経験に注目するのは、最初の渡日も北京漫遊も金史良が本格的に創作活動を始める1939年6月以前のことであり、この経験が金史良の創作に大きな影響を与えたと考えられるからである。そこで、まずは金史良が渡日後に参加した文芸同人誌『堤防』『文藝首都』から、帝国日本への移動の経験の影響が論じられる。議論の前提として、スライドの映像も交えつつ、当時の植民地朝鮮に「移動の経験」が共有されていたことが説明される。すなわち、帝国日本によって進められた農業開発政策によって農村が窮乏し、その結果、離農して都市に働きに出る人、山で畑を作る人、さらに日本・満州・中国に移住する人などが増えたのである。金史良の『堤防』での活動の問題関心にもこの共有された移動の経験があるとされ、それは農民に限定されず学生や青年などさまざまな階層にかかわる問題を書きたいという関心に見て取ることができるとされる。また、新進作家の発表の場として創刊された『文藝首都』での活動も紹介された。とくに高橋氏は1939年10月に発表され好評を博した「光の中に」と1940年に発表されあまり評価されなかった「土城廊」の二作の評価の違いに注目し、金史良に当時期待されたのが《朝鮮人の帝国日本への同化とその葛藤の描写》であったことを指摘された。それと同時に、『文芸首都』は植民地出身作家の作品を一方的に評価するだけでなく植民地出身作家同士の交流を生み出したことも説明された。

つぎに、報告のメインとして、北京漫遊を書いた随筆が取り上げられた。この随筆はいくつかの先行研究でも取り上げられているが、そのばあい中心となるのはこの随筆とほかの作品との関係であり、随筆そのものに立ち入った研究は不十分だとされる。そこで報告では、朝鮮語と日本語それぞれのテクストに立ち入った議論がなされた。まずは1939年8月に『博文』で発表された朝鮮語随筆「北京往来」が取り上げられた。ここで興味深かったのは、移動先の中国の文化を朝鮮とは異なるものとして意識するといういわゆるカルチャーショックのみならず、移動する過程で同じ中国行きの列車に乗る周りの朝鮮人との北京行きの動機が違うことも浮き彫りになるということだった。ほかの朝鮮人が利益を求めて北京に向かうのに対して、金史良の北京行きの動機は曖昧であり、それゆえ金史良は巡警に訊問された時に困ってしまう。「北京往来」の後半では、中国人の「ゲリラ戦法」のエピソードが非常に印象深く語られている。金史良は北京から帰る際に、「革靴」を朝鮮よりはるかに安い値段で買う――しかし、その「革靴」は一か月も履かないうちに破けてしまう。実際にはそれはただのエナメル靴だったのだ。そこで改めて朝鮮の町行く人々の靴を注意深く見ると、実に多くに人々が同じように靴だけ騙されて買ってきてしまっていることに気づく。そこで金史良は、この出来事を、《日中戦争勃発による「戦争景気」に乗じて中国に行った朝鮮人が、一攫千金を狙いながらもひそかに中国人の商人の「ゲリラ戦」に遭い、ぼろぼろの靴を履いた「敗残兵」になってしまっている》という事態として意識化する。この一節はとても面白く感じたが、続いて取り上げられた日本語随筆「エナメル靴の捕虜」(『文藝首都』1939年9月)との比較はさらに興味深かった。日本語で書かれた方では、中国に移住した朝鮮人が中国人の大家に対して傍若無人な態度をとるエピソードが加筆される。このエピソードにより、中国人の商人に騙されてエナメル靴を買わされた朝鮮人の「捕虜」としてのあり方がより際立つことになる(タイトルが示す通り、日本語で書かれた方は「捕虜」としての朝鮮人の存在が強調されている)。ここで描かれるのは、《帝国日本の植民地支配を受けた朝鮮人が「国威」により中国人に「傍若無人」な態度を取りながらも実際には中国人商人の「ゲリラ戦」によって「捕虜」にされてしまっている》という事態である。こうした事態に目を凝らすことで、金史良は日本人・朝鮮人の帝国日本の「国民」としてのあり方を捉え直しているのだ、と高橋氏は報告の最後にまとめられた。

第2講

次に、小田なら氏から、「ベトナムの自画像――東アジアと東南アジアの狭間の薬と医学」と題して、ベトナムの「伝統医学」の内実とその制度化の過程について報告があった。先の高橋氏の報告は、二項対立的な評価軸では捉え損ねてしまう金史良の創作の陰影を凝視するものだったが、それと同様に、小田氏の報告もまた、《近代西洋/伝統》の二項対立的図式では捉えきれないベトナム国内の多様な実態に光を当てるものである。

ベトナムの伝統医学とは、近代医学と並んで公的医療制度内で確立されているひとつの医療体系である。ベトナムにおいて近代医学は、フランス植民地期に西洋医学として導入されながらも都市部での影響力が限定的で大部分の農村部では普及しなかった。1945年の独立後、ベトナムは国策として西洋医学と東洋医学の併用を推進し、その結果、医療制度内に東洋医学の専門医・専門教育や市場、国立の伝統医学専門病院などが存在することになる。伝統医学は、西洋医学とは異なり、植物・鉱物・動物に由来する薬や鍼灸・マッサージによる治療法を用いる。この薬は、ベトナム由来の「南薬」と中国由来の「北薬」に分けられるとされるが、小田氏によれば、これは実態を示した区分というよりもむしろナショナリズムの産物である。問題はこの「産物」ということの内実にある。

報告では二つの問いを軸にして議論が組み立てられた。(1)20世紀ベトナムの国家権力がベトナムの「伝統医学」を再編制しようとした過程の解明。(2)20世紀ベトナムの国家建設とともに「制度化」された「伝統医学」と人びとの実践との関係の解明。「伝統はつくられるものである」という考えを充実させるためには「その伝統がどのようにつくられた(どのように利用され受け入れられた)か」の解明が必要であり、(1)の問いはこの解明を主題とする。さらに、政治的言説に規定された「伝統」なるものの意味を相対化するために、(2)の問いが重要になる。これまでの先行研究では、対外ナショナリズムを強調して、《伝統医学が公的医療制度に組み込まれたのはベトナムのナショナリズムの高揚が理由である》というかたちでまとめられることが多かった。その問題点を小田氏は二つ挙げる。ひとつは、こうした要約が《近代西洋医療/伝統医療》の二項対立的描像にとどまってしまうことであり、もうひとつは、そうした二項対立的描像の帰結として、南ベトナムの状況を等閑視してしまうことである。小田氏はこの二つの問題点に対して、ベトナム国内の多様性を詳らかにすることでアプローチする。

まず、北ベトナムにおける「伝統医学」の制度化過程が取り上げられる。公定史観上のその出発点は、ホー・チ・ミンが1955年に発したという「よびかけ」に求められる。この「よびかけ」以後、保健省主導のもと、(西洋医学の「西医」に対して)「東医」と呼ばれる伝統医学の組織化・専門職化が進められることになる。そこでは「科学化」が求められたが、小田氏の報告のなかではこの「科学化」という語はつねに「鍵括弧つき」で用いられていた。なぜなら、北ベトナムで追求された治療法の標準化としての「科学化」には、(1)標準化された治療法の具体的な明文化が欠けていたこと、(2)標準化に伴い要求された秘伝公開に対する東医側の懸念があったこと、(3)制度化された医療制度から逸脱した経験知を取り込むというかたちで制度と実態のもたれあい構造があったこと、といった問題があったからである。こうした問題を含みつつも北ベトナムが「科学化」を進めたのは、ナショナルな「伝統」を創出して国家建設に役立てるとともに、それをやはり「科学」に基づいた正統性をもつものとして提示しようとしたからである。この「ベトナムの」伝統医療創出という作業が可能になった背景には、中国医薬としての北薬とベトナム独自の南薬の区別が明瞭に存在したという事情があった。

それに対して、南ベトナムでは事情が異なっていた。北ベトナムとの重要な違いは、中華系住民の数と影響力である。1974年時点で「東医」部門の投資額全体の約80%が中華系資本であった南ベトナムでは、北ベトナムと異なり、華僑・華人を抜きに「伝統医学」を位置づけることができなかった。その結果、「伝統医学」はナショナリズムと結びつけられなかったのである。そのさらなる帰結として、南ベトナムでは、日常生活で実践されてきた伝統医学を「ベトナムの」伝統医学として公的な医療制度内に位置付けることが困難になった。このことは、民族主義者であったゴ・ディン・ジエムの政権下にあった南ベトナムの「東医」が置かれた状況にも影響している。ジエム政権下では伝統医療の「ベトナム化」が目指され、その過程で中華系住民への締め付けが行われたが、そうした政策は結果として、中華系住民が重要な役割を担っていた南ベトナムの「東医」業界を圧迫することにつながったのである。ジエム政権が崩壊した1964年以降は、西洋科学をベースにした「東医」の制度化が目指された。そこではまず「東医」の担い手の資格と活動範囲が定義され、担い手が確立された後で1972年以降に教育機関が設立された。重要なのは、ここでは北ベトナムのように中国医薬と区別されたベトナム医薬が柱に据えられるのではなく、西洋医学への対抗として「東医」が構想されたということである。

以上をまとめると、北ベトナムと南ベトナムの共通点と相違点が明らかになる。両者はともに「東医」の発展のために科学に依拠した。両者に共通するのは「東医」の理論的・制度的整備のための手段としての科学への信頼である(その結果、東医の当事者のなかにも自らの実践が「科学化」にそぐわないとして戸惑う者が出てくることにもなった)。それに対して、両者は「何のための制度化か」という点で異なっていた。北ベトナムが「西医」主導で「東医」の制度化を進めた際には、科学で効能を証明できるものに正統性を与えること、迷信・異端を排除することがその目的であった。他方で南ベトナムでは、「東医」の実践者が「西医」に対抗しうる正統性を確保するために制度化が進められた。

ここから言えるのは、南北分断期ベトナムの「伝統医学」が地域・時期によって呼称・内実を変えるということである。それでは、なぜ両国家はそうした多様な実践を「伝統」として包括して「制度化」しようとしたのだろうか。小田氏は二つの点からこの問いに答える。第一に、東アジア・東南アジアのはざまで、両国家ともナショナルな「伝統」を創出し国家建設に役立てるとともに、医療への人々の信頼を獲得するために「科学」に基づいた標準化を目指す必要があったということ。第二に、両国家とも、戦争や困難な経済状況を背景に、従来行われてきた治療方法の見直し・研究を推進せざるをえなかったということ。以上のように、小田氏の報告は医学・医療を通したアジア文化圏の考察を議論の大枠として、ベトナム国内の多様性を浮き彫りにすることで従来の二項対立的図式を解体するものであった。

第3講

最後に、吉川良和氏が「非文字文化としての中国芸能研究」と題して、漢字による中国の文字文化および非文字文化としての芸能の概要を、図版・映像資料を用いながら紹介された。雅俗両方の楽器を演奏なさるという吉川氏は、『中国音楽と芸能――非文字文化の探究』(2003年)や『北京における近代伝統演劇の曙光――非文字文化に魂を燃やした人々』(2012年)といった著作を出しており、その講演は該博な知識と生き生きとした経験に裏付けられた魅力的なものだった。報告は二つの部分から成り、前半で中国文字文化の概要が、後半で非文字文化としての芸能研究が述べられた。

文字文化の基礎となる漢字は世界で唯一、ひとつのシステムで今日まで伝わってきた文字である。それを可能にしたのは、中国における記録意識だった。紀元前5世紀末の『墨子』には、過去の偉大な施政者の事績が木材や鉱物・金属に刻まれて残されることで後世の子孫がそれを知ることができる、ということが書いてある。さらに、出世の道として文字と文章の習得が必要だったことや始皇帝による文字統一事業などにより、漢文が方言を超えた書き言葉として空間的・時間的遠隔伝達手段になったことが指摘された。さらに、漢字が普及するためには、文字統一事業や官僚制度といった制度設計のみならず、物質的発明が不可欠である。そうした発明として重要なのは、ひとつには紙製法であり、もうひとつには印刷術であった。紙は貴重品として皇帝に献上された(献上の記録が歴史書に残っていることから確認できる)。また、印刷術は仏教の布教および科挙制度という二つの要因により発展したとされる。とりわけ興味深かったのは、仏教の考え方として「印行」と呼ばれる経典の印刷が功徳として奨励されたことである。書物を印刷することは徳を積むことだ、との考えには何か勇気づけられるものがある。印刷術の普及に伴い識字階層も拡大し、それによって中国は書物大国となる。

その後、中国は20世紀初頭に日本の近代化にならおうとして民衆の啓蒙に取り組み始め、そこで啓蒙のメディアとして新聞に注目する。しかし、当時の北京の識字率は約10%という記録があり、啓蒙の対象である民衆の大多数にとって新聞は啓蒙の手段として不適切であると考えられた。そこで民衆啓蒙に用いられたのが、演劇や語り物である。このことを示すものとして、「ひとつの文明的芝居は10の新聞社より優る」という当時の言葉が紹介された。

中国は、社会の構成員すべてが非識字者の「無文字文化(社会)」とは異なり、「非文字文化(社会)」とされる。そこでは識字者と非識字者の文化が混淆し、互いに影響し合う。すなわち、民間の文芸が読書人に取り上げられ記録される一方で読書人が書いた台本が無筆の芸人に伝えられる、といった関係が成立している。ここで吉川氏が強調されていたのは、非文字文化の創造者・継承者の多くは無名の民衆だった、ということである。20世紀初頭の芝居の台詞はこのことを印象的に伝えている。すなわち、「有名なる英雄あり、無名なる英雄あり。無名なるものは時の勢いを造り、有名なるものは時の勢いこれを造る」。中国文化が文字文化とは無縁な無名なる英雄の功績であることを指摘しつつ、同時に強調されたのは、演劇の役者は被差別民であった、ということである。演劇が民衆啓蒙の手段として活用される一方で、それを演じる役者には科挙の受験資格はなく、当然立身出世の道は断たれていた。

続いて、新中国建国が芸能研究にもたらした影響が述べられた。大きな影響としては二つ挙げられる。第一に、新中国建国後、芝居と語り物の研究が意味するのは、主に知識人による台本研究であって、その研究も、台本の内容が共産党の思想・理念に合致するか否かという観点からなされるものだった。第二に、識字教育を受けた芸能者が育った結果、自分たちの芸能を研究し、文章や楽譜に記録できるようになった。前者が新中国建国の罪とすれば後者は功である、と吉川氏はまとめられた。さらに、民衆文化を重視する社会主義を反映して、国家的プロジェクトとして舞踏・音楽・語り物・演劇という4ジャンルの歴史・特性を各省が分析した大部の報告書や各省の芸能研究所から刊行される研究雑誌が次々に出版された。さらに、中国芸能研究資料としては、文字資料よりも古い出土品などの考古資料をまとめた報告雑誌も出版されるようになる。

吉川氏はここで出土楽器のひとつとして曽侯乙墓編鍾を音声映像資料とともに紹介された。これは前433年と銘が打たれた体鳴旋律楽器であり、65もある鐘すべてに標準音と音階名が銘記されている。また、鐘の形状にも特徴があり、日本のお寺に設置されているような口が円形の鐘ではなく、平べったいオリーブ型の口をしている。これは、鐘を連続で打ち旋律を奏でるという発想から、次の音に重ならないよう極力余韻が残らない形状を探究した結果だとされる。現在はこの出土品は厳重に保管されているため触れることができないが、まだ触れて演奏さえすることができた時期の映像が残っており、当日会場でこの映像が流された。それは中国芸能を紹介する番組で、出土された本物の鐘を用いて「さくらさくら」が演奏された。番組内でアナウンサーがその音を「かわいい」と評していたが、実際あまり余韻の残らない丸みのあるかわいらしい音が響いていた。

こうした出土楽器は非文字文化研究にとっては非常に重要な意味をもつ。とりわけ、文献の情報と照らし合わせることが重要で、場合によっては文献資料の誤りが楽器の出土によって明らかになることもある。ここでも吉川氏は印象的な事例を紹介された。曽侯乙墓からは二本のフエが出土したが、それは歌口と指孔が90度の角度になっていた閉口の横ブエであった。これを『周来』などの文献資料にたずねると、「篪(ち)」と呼ばれる楽器名に辿り着いた。そこで、文献資料に見られる「一孔は上に出る」という一節が解読可能になった。出土楽器を見たことがなかった後世の人はこの「上に出る」を「上に飛び出している」と解してそのようにこの「篪」という楽器を図説していたのだったが、実際には「指孔が正面を向くと90度ずれて開けられた歌口は上を向く」ということだったのである。

さらにまた、非文字文化が文字文化の従属物・附属物などではなく、必須の知識として知るべき中国文化の重要な部分を占めていることを吉川氏は強調された。報告の最後に吉川氏は、「臥箜篌(がくご)」という楽器の謎をめぐるお話もなさった。箜篌とはハープのことであり、それに「臥」の字がつく臥箜篌は楽器をねかせて奏する水平ハープを指す。文献資料と楽器演奏の知識を活用してこの楽器の由来と形態・演奏法に迫っていく議論はミステリの解決編のようにスリリングであった。また、この楽器がのちの中国で見られなくなった一方で朝鮮に渡り「玄琴」として重用されたという歴史的経緯を知ると、楽器には発展史があるという当然のことがあらためて生き生きと悟られた。さらに、楽器とは当時の最先端技術を用いて製作されるものである、という点も吉川氏は指摘なさった。求められる音を出すために鐘の形状を考えるのは工学的知識や技術が必要であるし、金属の加工には化学的技術が必要である。また弦楽器にかんしても、当時存在していたとされる楽器の記述から、弦の太さを自在に織り分ける絹織物技術がすでに紀元前に存在していたことがわかるのである。

以上のように、楽器には発展史があると同時に当時の科学技術の粋という側面もある。この点は非文字文化研究にとって重要である。

結辞

以上三つの報告により、今回のシンポジウムでは、東アジアの文化生成の多様で複雑なあり方が提示された。いずれの報告も、越境・混淆・共生というテーマにかかわるものでありながら、二項対立的で単純な図式を避けるためにそれぞれの個別の事柄に深く入り込むものであり、そこから学ぶものは大きかった。

文責:大学院言語社会研究科/守博紀(特別研究員)