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お知らせ

研究会「帝国的編成に抗して沖縄をめぐるジェンダー化、 人種化、民族・国民化の図式とその亀裂」

【レポート】

 沖縄をめぐる言説が 、米国および日本の帝国的編成において構成されたジェンダー、人種、民族・国民の図式を反復する傾向からいかに抜け出せるのだろうか 。それら諸カテゴリーの構築の 過程が 問い直されずに実体として 自明 化されるとき、当の帝国的権力は強化されると同時に 、さらに「 周縁 」へと追われてしまう人々を再生産することは免れ得ないだろう。このような問いのもとに、シンポジウム「帝国的編成に抗して ― ― 沖縄をめぐるジェンダー化、人種化、民族・国民化とその亀裂」は 行われた。司会の井上間従文氏は、アン・ローラ・ストーラーなどの概念でもある「帝国的編成」を 、酒井直樹氏の言う「対形象の図式」を経由させ 、沖縄 、米国、日本をめぐる権力の図式に引き寄せた上で、 当シンポジウムの概要を説明し今回の報告者およびディスカッサントの紹介を行った。彼/彼女らはいずれも、これまでこのような問いに向き合い、こうした帝国の 秩序・体制からこぼれ落ちていく者たちを拾い集める研究を続けてきた人々である。

 宮城晴美氏 は、国民国家によって押し進められた家父長制の論理と、沖縄戦における「集 団自決」との関連性を、とりわけ座間味島の事例から明らかにした。このような分析から、自ら自決を決断した人々の行動は、単に死を強制する外的圧力のみに起因するものでは なく、家父長制という他者支配の論理が内面化されたことに依るということが示された 。死を強要 されるニュアンスを含んだ受動的な「強制集団 死」ではなく、敢えて能動的な「集団自決」 という言葉を選択する宮城氏は、国民国家におけるジェンダー規範は、外的に強要されながらも、身体において刻印され発動する暴力であることを論じた。

 徳田匡氏は、19世紀にアメリカにおいて展開された優生思想 が、戦前・戦後の日本および 戦後沖縄に導入された 「家族計画」などの制度や「優生保護法」などの 法律にも引き継がれていることを、法律文書などの文言を検証することで指摘した。それら制度や法律は、健全な文化を持つ国家や民族を目指すという目的のもと考案されており、優秀な民族を維持する一方で、「淘汰」されなければならない人々を生み出す必要があった。彼は以上の議論を展開した上で、霙平名智太郎(1981 - 1960)の著作を例にとり、戦後沖縄において流布する「沖縄人/琉球人」という言葉も 、優生思想を内包するものであるという見解を提示した。徳田氏は、たとえ「沖縄人/琉球人」という言葉が、反植民地主義から発せられたものであったとしても、 優生思想を定義上内包する民族主義への批判 なくしては、沖縄の脱植民地化はあり得ないと主張した。

 松田潤氏は、以上二人の報告を受けてそれぞれにコメントした。宮城氏の研究とそれによって彼女が敢えて使う「集団自決」という言葉は、軍命があったかどうかという法廷における真実論争だけでは見えてこない、国民国家の重層化された規範を内面化した人々の身体を明るみに出す意義がある、として評価した。このように、法廷で述べられる証言とは異なる形の「証言」を 拾い集める彼女の試みを、これまで度々、ガマや洞窟を女性の性器になぞらえて表象してきた 沖縄の文学に対置することで、それとは別の文学の可能性を開くことがで きるのではないかと述べた。徳田氏に対しては、沖縄の知識人が県外・国外へ移動するのには、日本や米国の制度によるものであったという報告に関して、彼等がそのような移動を経験することで、沖縄の民族論を再生産する語りとは異なり、それに亀裂を入れるような発言をする事例があったのかどうか、という問いを投げかけた。

  新城郁夫氏は、現在、沖縄では言葉の定義がなされないままに 一見力強い言葉たちが華々しく語られるといった、言葉のインフレーション状態にあることを指摘した上で、そのような状況のなか、今回の報告者二人のように言葉を緻密に深く分析する重要性を強調した。また岡本恵徳、屋嘉比収といった思想家たちの思考の系譜に自らの仕事を位置づけながら当日のコメントは述べられた。そして「自分たち」という想像上の共同体を立ち上げた上で、その未来は自分たちで決めるという民族自決が究極 的に陥る事態 が「集団自決」だとすると、そうではない形で権力からの離脱を意志するためには、「民族」とは別の形象を求める必要が沖縄においてあるのではないか、と問うた。同時に、「日本人」の決断として沖縄の基地 を日本本土に「持ち帰る」といったいわゆる「移設論」の言説も、アメリカの軍事編成を下支えするのみならず、これらの論者たちがその地にて生きる人々に死やレイプを強いるという意味において「自決」のロジックをなぞってしまっている との指摘がなされた。 この「民 族」とは別の形象の到来は、犠牲という決断をしないという決断を持ち続ける試みを要する。その過程で権力構造内での「自決」とは全く異なる「自律」が沖縄にとどまらない各地で実践されうるのではないか、と新城氏は自身のコメントを結んだ。

 会場からのリスポンスをいくつか取り上げると以下のようなものがあった。73年に日本本土で行われた優生保護法阻止闘争に対して、沖縄の中ではどのような反応があったのか。新城氏が主張する、犠牲を決断しないという決断を持ち続けること、言い換えればある言葉の前に立ち止まるということも重要ではあるのだが、するとなおさら宮城氏のように「強制集団死」ではなく、「集団自決」という言葉を敢えて使う試みも必要ではないか。主権という言葉を使った途端、優生思想の論理が入り込んでしまう。国民という概念の中に、すでに優生思想が潜んでいる。取り上げたリスポンスは一部のみだが、会場からは他にも多くの質問とコメントが上がり、活気のある議論の場となった。(佐喜真彩)

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