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カリキュラム

授業紹介

「人文学入門/特論」とその基盤(第1部門)

「人文総合」という考えかた――果てなき航海

言語社会研究科は独立大学院で、下に学部を持ちません。しかし、一橋大学には人文系の学部がないため、いわゆる「教養教育」において本来文学部が果たすような役割のうちかなりの部分を、言語社会研究科の教員一同は担っています。ほとんどの教員が多かれ少なかれ学部生向けの授業を開講しており、それらの講義やゼミ、語学授業等は時に大学院生にとってもたいへん有意義な学習機会でありえます。特に、自分の専門とは全く異なる分野に触れてみたいと思うときには、学部授業の履修や聴講がちょうどよい導入の役目を果たしてくれることでしょう。

あらゆる機会をとらえて自らのキャパシティを拡大していくことは、どんな学問にとっても大事ですが、人文学においてはことのほか大切なことです。大学院はむろん「高度な専門性」を培うための場所ですが、例えば古代エジプト第22王朝における書記の地位に関して恐るべき深い知識を有している「高度な専門家」がいたとして、その知識が持つ真の意義深さが知られるためには、エジプト第21王朝や第23王朝のことはもちろん、古代エジプトの系譜をひき「書記」に多少なりとも重きを置いてきた諸文明のこともまた多く知られなくてはならないでしょうし、ひいてはこの世の「人の文(あや)」を織りなしていると想定されうるあらゆる知識の中でそれらの知識が奈辺に位置づけられうるのかもまた知られなくてはならないでしょう。逆説的ではありますが、自らの研究の意義を知り、ひとにも知ってもらうためには、自分の研究分野以外の分野のことをも広く知らねばならないのです。このことが人文学においてことさら顕著なのは、人のあや、「人文」という二文字がそもそもこの世の人の営みの綜合的ネットワークを指すからでしょう。ダ・ヴィンチの頃でさえオールマイティであるのは極めて困難なことだったでしょうし、情報の量が膨大になり流通速度がいや増していく現代において、このネットワークを俯瞰するのは誰にもたやすいことではありません。あまねく諸分野に目を配るといっても、その心づもりが単なる浅薄な「つまみぐい」「くいちらかし」に留まっては何の意味もありませんし、また他方、「俯瞰する」という姿勢そのものが、戦後の人文学の歴史において、一種の倫理的な悪であるかのように語られてきた経緯もあります。しかし、俯瞰的な視点を持つということは、わかりもしないことを一見わかりやすいレッテルでくくって「上から目線」で語ることとは全く異なります。短絡的な思考を以て独善的にものを見る「上から目線」では、真に総体を俯瞰することはむしろかなわないのです。

いろいろな分野を知ることのほかに、いろいろなアプローチを知ることも大事です。誰しも、自分のアプローチがいちばん優れていると思いたいものですし、また分野によって、「これこれの対象には、これこれのアプローチをすべし」というような「王道」が定められていたりします。しかし、絶対的に優れた方法論とか、未来永劫通用するメソッドとか、常に最高に価値ある研究対象、などというものはどこにもありません――あるのかもしれませんが、現代スタンダードとされている類の方法論やメソッドや「論文のかきかた」が権威あるものとして確立してからいまだ何世紀も経っていませんから、未来はどうなるか測り知れない、その測り知れなさこそが、人文学のほんとうの相手です。学術の価値に絶対はあるのか、それともあくまでそれは相対的なものにすぎないのか、それをみずから常に問い、みずからの営為の価値をも謙虚に問い続けるなかで、学術というもののキャパシティと共に世界の枠組みをひろげてゆき、その中におのれと他者との位置を発展的に見出すこと、それが人文学に求められている責務であるとすれば、言語社会研究科は懸命にその一旦を担いたいと思います。

専任教員がたった16名しかいない第1部門が、そのくせひろげる大風呂敷「人文総合」なるうたい文句は、このような心意気をこそ示そうとするものです。毎年、16名のうちたいてい誰か1人は海外出張などで留守になり、たちまち15名になってしまう第1部門ですが、そんな小さい規模にも関わらず、ふきだまった各教員が専門として掲げる分野とアプローチと指導方針のばらばらさ加減ではおそらくどこの大規模研究科にもひけをとりません。研究棟は小さくても、その中に圧縮されている天地は果てのない広さを内包しています――むろん、果てのない広さというものはそれ自体、ぬぐいえない茫漠たる不安を常にもたらすものでもあるのですが。

死人の箱にゃ15人
ラム開けろ、ほい! 残りはみんな
酒と悪魔に食われたよ
よっほい1本、ラム開けろ!
オムニバス講義科目「人文学入門/特論」紹介

分野とアプローチの多様さ(と、ついでに同僚どうしの仲のよさ)を活かすべく、2017年度から言語社会研究科では、「人文学入門」という学部教養教育科目を新設しました。その名の通り、「人文学」への「入門」を目的としたオムニバス講義ですが、上記のような「人文学とは何か?」といった大上段の問いかけを学部生諸君に対して行おうというわけではなく、複数の各担当教員がそれぞれ選んだ個別のトピックをめぐって、まずは「人文学の愉しみ」を受講生諸君にためしに軽く味わってもらおうというものなので、この授業自体は、大学院生はさすがに履修できません。そのかわり、大学院生用に「人文学特論」という別の授業枠を設けました。この「特論」を履修すると、「入門」を聴講した上で大学院生向けの課題をこなして単位を得ることができます。修士課程に2年、博士課程に3年いても、16名の教員全員の研究や授業に触れることはなかなかできないものですが、この「人文学入門/特論」はそういう意味でも得難く楽しい機会を与えてくれるでしょう。

「人文学入門/特論」は、「文学」「人間科学(≒芸術)」「歴史学」「哲学・思想」「総合」の5種類を用意しており、年がわりで2本づつくらいを回しています。下に、各年度に開講された「入門」の概要とラインナップを簡単にご紹介します。2019年度以降のぶんはシラバスからの転記です(2018年度の資料が現在見失われていますが、追って補填する予定です!)。過去5年ぶんの詳細は直接シラバスでごらんになれます。

2022年度「人文学入門(哲学・思想)」

今年度の人文学入門(哲学・思想)は「数と量をめぐる人文学」と題して開講します。このフレーズは、皆さんの耳に奇妙に響くかもしれません。数量的ということは「客観的」で「科学的」だということであり、人文学とは方向性が異なるように思えるからです。しかし、私たちの身の回りを見渡せば、さまざまな数と量があふれています。日付や価格、通信速度、学業成績に感染者数……現代社会は数と量によって規定され、そのことは私たちのものの見方や考え方にも影響を与えているはずです。このことを深く考えていく学問は、やはり人文学ではないでしょうか。
この授業では、数多くの歴史的事例を取り上げつつ、数と量「について」考えていきます。そもそも数とは何なのか? 人間は何を、どのように計/測ってきたのか? 数と量を使うことで私たちは何を得、何を失っているのか? このリレー講義では、そうした問いについて考察する手がかりを提供します。

2021年度「人文学入門(歴史)」

2021年度開講の人文学入門(歴史)では、「旅」をテーマとします。6人の講師たちがそれぞれ、自分の専門領域やその周辺で、「旅」を歴史的文脈のなかで探求します。よく言われるように、旅は人生のメタファーとして機能しています。旅について問うことは、人生について考えることに通じます。それはすなわち、わたしたち〈人間〉についての学問である人文学(英語では Humanities) にとってもっとも基本的な問いであるといえます。

2021年度「人文学入門(総合)」

現代社会には映像があふれています。昔からある映画・テレビにとどまらず、YouTubeをはじめとする各種ポータルやSNSにはありとあらゆる映像が転がっており、スマホさえあればいつでもどこでも誰でも動画を見たり撮ったり、共有したりすることができます。動画に限らず静止画までも「映像」に含めるなら、現代の私たちは、ほぼ一日中「映像」を眺めて暮らしていると言っても過言ではないでしょう。PCをつければ待機画面にはほぼ必ず何かが「映」っていますし、PDFも、またレポートを書くときのWord画面さえ、一種の映像だからです。しかし、そのように映像を見ながら、他方で私たちはそれが映像であることを意識しないまま、そこに映る人や事象を、あたかも現実そのものであるかのようにして受け入れています。極めて多くの情報を映像から得る時代、各種映像が私たちの意識・認識、ものの考え方にもたらす影響は測り知れません。
映像を見るとき私たちは何をどう知覚して、種々の情報をどのように得ているのか、それについてどのように語るべきなのか。映像は「物語」的なものをいかにして作り出し、また「物語」からはずれる表現を生み出して来たのでしょうか。映像や映画は社会的事象や歴史的経験とどのような緊張関係を作り出して来たでしょうか。
このリレー講義では、いくつかのトピックをめぐって、映像のありかた・捉えかたについて、考察の手がかりを提供します。

2020年度「人文学入門(哲学・思想)」

2017年度新設科目「人文学入門」は、その名の通り、「人文学」への「入門」を目的としたオムニバス講義です。2020年度開講の人文学入門(哲 学・思想)では、「動物とは何か」をテーマとします。5人の講師たちがそれぞれ、自分の専門領域のなかで一生懸命「動物」探しをします。動物とは何かを問うことは、結局のところ、人間とは何かを問うことなのではないでしょうか。それはすなわち、わたしたち〈人間〉についての学問である人文学(英語では Humanities) にとってもっとも基本的な問いであるといえます。
*付記(2020年4月10日):新型コロナウイルス (COVID-19) 感染拡大にともない、本講義を含むすべての授業がオンライン化されることになりました。奇しくも「動物」をテーマに選んだ年に、生物と無生物、自己と他者の境界上の存在である「ウイルス」というものが、人間社会のありように根本から揺さぶりをかけています。「人文学」が感染症対策にすぐさま「役に立つ」わけではありませんが、「いま、ここ」の状況のなかで、歴史を紐解き、哲学的思索を巡らすことによって、人間の未来をつくりなおす手がかりを発見できればと考えています。オンライン講義という身体性を欠いた講義形態をつうじて動物(身体)を語るというアイロニーこそが、きわめて人文学的な営みだと言えるかもしれません。

2019年度「人文学入門(人間科学)」

音楽、映画、舞台芸術、さまざまな視聴覚芸術・芸能を現代の私たちは日々、さまざまなメディアで享受しています。世界のあらゆる場所で行われているパフォーマンスに、インターネットを介して即時に触れることができますし、動画サイトには、ある時代以降のさまざまな芸能・芸術が横並びに並んで、よりどりみどりの活況を呈しています。見きれない、聴ききれないほどのその豊かさは、しかし、単に娯楽として消費されがちな表面的な豊かさの奥に、もっと濃密な、時にぞっとするほどの深淵を秘めています。ある音楽を、いいな、と思って聴くとき、あるいは、舞踊やお芝居、何かの身体パフォーマンスを凄いな、素晴らしいなと思って鑑賞するとき、私たちの琴線に触れているものは何なのでしょうか。このリレー講義では、ふだん私たちが何げなく聴取したり鑑賞したりしている芸能・芸術と、その享受のありかたについて、次のような視点から掘り下げていきます。

  1. 個々の芸能・芸術の成立と展開の経緯を、思想的・社会的・政治的背景との関わりを含めて知り、例えば歌が歌われ、聴かれるというコミュニケーションにおいて何がやりとりされるのかを考える
  2. 国境を超えた芸能・芸術の流通の歴史と現状を、地理的な条件を含め、異文化交流の観点から考える
  3. 人間がそのつど求め、娯楽と呼ばれるものによって得る慰撫や鼓舞のありかたを、個々の芸術・芸能を成立させ、流通させ、享受可能にしてきたメディア(ラジオ、テレビ、インターネット等々および、録音再生技術などのテクノロジーを含む)の歴史から考える

音楽を聴いたり、お芝居や祭りを見たりすることは、単なる「娯楽の消費」や、高尚な「芸術鑑賞」というような枠組みで汲みつくせる営みではありません。「娯楽消費」と「芸術鑑賞」の間で取りこぼされてしまいがちな、肉体と感情と精神との機微に、上記の観点から迫ります。

2019年度「人文学入門(歴史)」

2017年度新設科目「人文学入門」は、その名の通り、「人文学」への「入門」を目的としたオムニバス講義です。2019年度開講の人文学入門(歴史)では、「人文学と戦争」をテーマとします。歴史の歩みをたどりながら、戦争と社会、そして文化とのかかわり方について、ちょっとまじめに考えてみましょう。

2018年度「人文学入門/特論」

2022年現在、この年の記録が見失われていますが、この年は3本の「人文学入門」が開講されました。「(哲学・思想)」「(総合)」及び「(文学)」の3種類です。追って資料を探してここに追記します。

2017年度「人文学入門/特論C(文学)」

古今東西の文学作品を素材として、さまざまな料理の仕方を披露します。「テクストとコンテクスト」「地域文学と世界文学」「社会と文学」「政治と文学」「女性と文学」など多様なトピックをめぐる〈読み〉に触れ、「答え」ではなく「問い」を発見するという(学問的)〈よろこび〉の一端を経験する場となることが、本オムニバス講義の目的です。

2017年度「人文学入門/特論D(人間科学)」

芸術を中心としたテーマを取り上げます。中心と周縁、伝統と破壊、宗主国と植民地、制度と逸脱などの軸をめぐって、地域や時代を横断しながら多様なトピックスをお話しします。芸術に親しみ、学問的なアプローチの基礎を学びます。

付記: 世界を統べるものは秩序ではなく、ごった煮である

……とは、16世紀イギリスの思想家ロバート・バートンの言葉ですが、言社研の「ごった煮」ぶりを目のあたりにしたいかたは、「言社研論文データベース」をご利用ください。創立以来言社研が輩出してきた博士論文・修士論文・紀要論文などを独自のシステムでキーワード検索できます。