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教員紹介

教員と研究領域/第2部門(日本語教育学位取得プログラム)

庵 功雄

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日本語教育と日本語学のあるべき関係を求めて

日本語学という学問分野があります。以前は「国語学」と呼ばれていましたが、現在では、現代日本語に関する研究分野は「日本語学」と呼ぶのが一般的です。

「国語」と「日本語」は同じものだと思われるかもしれませんが、必ずしもそうではありません。韓国で「国語」と言えば「韓国語」のことを指すように、「国語」ということばは、誰がどこで使うかによって指すもの(指示対象)が変わります。これはちょうど、「首相」という語が、2017年6月現在、日本人が日本で使えば「安倍氏」を、ドイツ人がドイツで使えば「メルケル氏」を指すのに似ています。つまり、「国語」という語は「普通名詞」なのです。一方、「日本語」は誰がどこで使ってもJapanese languageを指すので、「固有名詞」です。

なぜこのような話をするかと言うと、「国語」というとらえ方と「日本語」というとらえ方に、ことばやことばに関する研究に関する考え方の違いが反映しているからです。

「国語」という語は日本人が使うことによって初めてJapanese languageを指すものですが、そうした考え方は往々にして、「国語の研究は日本人にしかできない」といった思い込みを生みがちです(実際、こうした考え方が戦前の国語学を支配していたのです)。

「国語」というとらえ方に内在するもう1つの問題点は、日本語を客観的にとらえるという観点を軽視することです。日本語に関する研究は、日本語を世界の諸言語の1つと見るということから出発しなければなりません。その上で、日本語が持つどのような性質が世界の言語の中で特殊なのか、どのような部分は普通なのか、といったことを分析していく必要があります。

著名な言語学者である角田太作氏の『世界の言語と日本語』(くろしお出版)という本に、「日本語は特殊ではない。しかし、英語は特殊だ」という題の章があります。そこで指摘されているように、日本語は類型論的に見たときに標準的と言える性格を数多く持っています(動詞などの活用にほとんど不規則なものがないのもその1例です)。ただ、その一方で、もののやりとり(授受)に関する動詞が3種類(「あげる/やる、くれる、もらう」)あるのは世界の言語の中で非常に珍しいことが知られています。このように、日本語が世界の言語と比べてどのような特徴を持っているのかを知るためには、日本語を客観的にとらえようとする姿勢を持つことが不可欠なのです。

日本語を客観的に研究することは日本語教育にとっても重要です。それは、日本語に関する内省力(「語感」に相当するもの)を持たない学習者に対する説明は、日本語を母語とする人(および、それに近い内省力を持つ非母語話者)が持っている内省力(「文法能力」と呼ばれます)に依存しないものでなければならないからです。

こうした意味で、「日本語学」は「日本語教育」とは本来不可分の関係にあるものです。そして、日本語教育をより高度なものにしていく上で、日本語学の知見は不可欠なものなのです。しかし、残念ながら、現状では、両者の関係は「半離婚状態」と呼べるほど疎遠なものになっています。このことは、日本語学、日本語教育双方にとって深刻な悪影響を与えていると私は考えています。

日本語学にとっての影響は、日本語学習者への説明という観点を放棄したことにともなう、研究の「タコツボ化」です。これは、日本語学の学問としてのアイデンティティに関わる深刻な問題を引き起こしているように見えます。

一方、日本語教育にとっての影響は、日本語教育が、「日本語」自体に対する関心を失うことによって、学習者が抱えている様々な問題に対応する能力を失いつつあることです。

一例を挙げます。今、ベトナムやネパールからの来日者が急増しており、その多くは「留学生」の身分で来日しています。その背景には、日本の「移民」政策が抱える問題点などもあり、単純に論じられない部分もありますが、少なくとも言えることは、現在の日本語教育がこれらの急増する「留学生」に対する教育に対応できていないということです。彼/彼女たちのような非漢字圏学習者に対する日本語教育のフォーマットが全くと言っていいほど整備されていないことが、現在(そして、今後より深刻化すると思われる)これらの学習者に対する日本語教育の、ひいては、日本社会の受け入れ政策に、マイナスの影響を与えることを、私は強く危惧しています。

こうした問題について考えるためには、まずは、「日本語」自体についての研究に取り組む必要があると思います(もちろん、これは全ての人がそうした研究を行うべきだということではありません。少なくとも、そうした研究が常に一定の割合で行われ続ける必要があるということです)。その中には、文法、語彙、音声・音韻に関する研究が含まれるのは言うまでもありませんが、漢字に関する研究も極めて重要であると思います。

「国語」と「日本語」は、科目名の違いにも現れています。すなわち、小中高でのJapanese languageの授業名は「国語」であるのに対し、大学での授業科目名は「日本語」であるのが普通です。これは一見すると、対象者の違いによるもの、つまり、小中高は、「母語話者」に対する教育であるのに対し、大学での対象者は「非母語話者」であるということ、に由来していると考えられそうです。しかし、現実は必ずしもそうではありません。

現在、小中高の多くの教室で、「非母語話者」(外国にルーツを持つ子どもたち)がJapanese languageの授業を受けています。この場合、彼/彼女たちにとって「国語」は「日本語」ではありません。これは、「ことば遊び」の問題ではありません。「母語」として日本語を習うのと、「第二言語」として日本語を習うのは様々な点で根本的に違うことであり、そのことに合わせた教育が必要なのです(日本人の子どもが英語圏の小中高で、英語の教育を受ける場合のことと比較して考えてみてください)。この2つのことが違うことなのだという当たり前の事実が、「国語」という科目名によって隠されてしまう危険性があるのです。

同様のことは、ろうの子どもたち(ろう児)についても言えます。彼/彼女たちの「母語」は「日本手話」ですが、「日本手話」は日本語をもとにした「日本語対応手話」(実質的には「日本語」)とは言語的性質が全く異なる別の言語です。したがって、ろう児たちにとって、日本語(書記日本語)は「母語」ではなく、「第二言語」なのです。しかし、この点が理解されていないことにより、多くの不幸がもたらされています。

このように、「国語」と「日本語」という違いは、様々な形の影響を与えています。これは、「ことば(母語)は人間の思考を規定する」ということの一例であるとも言えます。

こうした「ことばの持つ強制力」に抗して、「日本語」を客観的に研究することを通して、「日本語教育」に貢献するというのが「日本語学」の建学の精神であり、私はそこへの回帰を通して、「日本語学」と「日本語教育」が、双方にとってあるべき健全な関係を取り戻すために微力を捧げたいと考えています。

以上のような考えに共鳴していただける方、どうぞ一橋大学言語社会研究科第2部門にお越しください。みなさんとともに考えていけることを心から祈っています。