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教員紹介

教員と研究領域/第一部門(人文総合)

武村 知子

研究室:東キャンパス国際研究館4階
オフィスアワー:随時。ただしメールでアポイントメントを取ること。
連絡先:メールアドレスはスパム対策のため画像化されています
捧ぐるソネット

至らぬ者は倖なるかな、学ぶべきことどもなほ多かればなり。
いまだ道遠き者は倖なるかな、路傍に花咲き乱れたればなり。

知己少き者は倖なるかな、対象の専ら俱にあればなり。
人のつらきに泣く者は倖なるかな、対象より手の差し伸べらるればなり。

倖なるかな言葉貧しき者、文の彼らを富ますれば。
倖なるかな理に渇く者、万象が彼らを涵してあれば。
畏れて水に泛まばひかりふかく、四方氾く濶からん。

この門をくぐる者は(ゼミナールについて)

みずからの選択した考察対象をめぐって、精確な言葉使いとロジックで文章を書く練習。目の前にあるものに、自分自身の言葉で対峙する――それは案外、難しいことだ。できているようでできていないのが普通である。まずそれを身をもって知ること。目の前にある、気になる作品・人・事象現象、さまざまな対象に、みずからの言語をもって対峙する。記述という手段をもってどこまで何が可能であるか、またそれは何のために行われるのか。

ゼミは発表形式である。毎回、一人ないし複数の参加者が、自分の選んだ対象についてテクストを書き、発表する。発表は口頭ではなく、あらかじめMLでテクストを全員に配布する形で行われる。ゼミ参加者は配布されたテクストをあらかじめ読んでおき、ゼミの場では、質疑応答・討論のみを行う。発表テクストは、一橋の慣習にのっとり「レジュメ」と呼ばれるが、実質的には「レジュメ(要約)」であってはならず、そのとき書けるだけのことが書きつくされていなくてはならない。発表に際して原則として映像資料等およびパワーポイントなど補助ツールの使用は認めない。叙述のみで勝負してもらうものとする。

その叙述がどこまで綿密に行われているか、対象をめぐってどのように機能し得ているか、そのテクストにおいて発表者(記述者)と対象とがどのような関係を結び得ているか、そのようなことどもについてゼミでの議論はなされる。発表者はその場では俎板の鯉であり、大抵の場合、自分のテクストがいかに「書けていないか」を思い知らされる。ゼミは発表者自身にとっての修練の場でもあるが、それ以上に、発表者のテクストを読みつくすという点において、発表者以外の参加者一同の修練の場である。

選ぶべき対象の範囲はことさら限定しない。したがって回によっては、各参加者にとって、本来全く興味のない範疇の対象が選択され扱われることが大いにありうる。しかし、発表テクストの対象がいかなるものであろうとも、ゼミの討論の直接の対象は、発表テクストそのものである。いかなるものをめぐって書かれたテクストであろうと、テクストが出てくればそのテクストがゼミ討論の対象になる。「今日の発表テクストは自分の興味のないものごとをめぐるものだから、今日は欠席しよう」という態度は許容しない。とはいえ、制度上これを「許容しない」ことは困難であるから、事実上そこは各参加者に任されることになるが、実際のところ、3回に1回とかそれ以下の出席しかせず、議論にもさしてコミットしない者が、2年間のうちに何らかの有為な成果を得て良い修論を書けたことはこれまでに一度の例しもない。そういう者は当ゼミに在籍していたとしても、入学時からほぼ何の進歩もないまま、かろうじてお情けで修士修了するのが常であるから、諸発表・諸議論の内容・方針にさして興味が持てないとわかったら、即座に他のゼミに移ることを推奨する。

【注意】当研究科には「研究生」制度はありません。研究生を志望するかたは、
全学制度をご利用ください。当方に直接問い合わされてもお答えしかねます。

博士コロキウムと一氾文学会

ゼミの人数が膨張したため、ひとりひとりの発表機会を増やすために、2017年度から「博士コロキウム」を開講している。主として博士課程学生がまとまった長いものを発表し議論に供するための場である。議論の方針は上のゼミナールと同様だが、ゼミナールを履修していなくともこちらの履修は可能、また修士課程や学部の学生も(正規履修はできないが)参加できる。詳しくはシラバスを参照のこと。

また、2017年9月に設立した学会「一氾文学会」の運営にかかわる仕事を、このコロキウムの枠内で行うことがある。

2021年度においては、上記ゼミナールの形式変更に伴い博士コロキウムの形態をどのようにするか検討中。場合によっては一氾文学会運営業務に特化するかもしれない。

この門をくぐる者は その2

目の前にあるものに言語をもって相対するとき、どこまで何が可能なのか、と考えるときに重要なのは、言語にとって何が可能か、ではなく、「私の言語にとって」何が可能か、以外ではない。「私の目の前に」あるものは私の目の前にしかなく、そこで発せられるのは私の言語でしかない。私の言語だけが、私の目の前にあるものに対峙できるのであるから、その対峙ができない、あるいはその対峙に敗れたときに、敗れたのは「私の言語」であって言語一般ではないことを知るべきである。対峙ができなければ、それだけのことであり、あなたが何を書かなくとも世界は回ってゆく。世界はべつにあなたを必要としていない。あなたを必要とするものは、あなたが相対しようとするものだけであり、あなたが必要とするものは、あなたが相対しようとするものだけだ。「私」は私の言語をもってどのようにどこまで、「あなた」に対峙できるのか。

多くの「私たち」の目の前にあった「あなたたち」一覧(順不同)

ウォン・カーウァイ、Blanky Jet City、W・フォーサイスのダンス、マルチ・ストーリー映画、ガンダム、植物写真、メランコリー論、クリント・イーストウッド映画、一般動画論、子供オペラ、『キャプテン・ハーロック』、野村佐紀子の写真、クロソフスキー、夢野久作、『千年女優』、モッズ、北野映画、テクノミュージック、サウンドスケープ、『ハンター×ハンター』、演劇身体、エル・リシツキーのブックデザイン、モンドリアン、レイヴカルチャー、アンドレ・バザン、フィルム・ノワールの辺境、戦争と絵画、映像における原爆表象、ソクーロフ『オリエンタル・エレジー』、宮沢賢治のオノマトペ、『鋼の錬金術師』、ブレッソン、サインウェーヴ・ミュージック一般、ニコライ・カールステン、フィルムの傷、「ipod」CM戦略、「文字を読む」こと、ダイアン・アーバスの写真、ゆうこりん、メルロ・ポンティ、ヤナーチェクのオペラ、アルトマン、インターネットの言説と少年犯罪、『不思議の海のナディア』、ドリュ・ラ・ロシェルと戦間期フランスのデカダンス、帝政期ロシアの映画ジャーナリズム、夏目漱石と阿部公房における主体の「ずれ」、「かんぐる」ことと「根拠」、ヒップホップ、『呪怨』+『サスペリア』、マンガ・ボクシング、歌声の超越、録音を聞くこと、ユスターシュ、アントニオーニ、黒田硫黄、「精確さ」、対話、プチ涅槃、白い茶碗と「用の美」、写真と写真家、写真と写真家とカメラ、フジモリ訴追問題、源氏物語のエピステーメー、司法における修復的手法、サンタクロース、『百年の孤独』、旅行、プルースト、エロゲー、情熱、メキシコ映画、動員、神秘主義体験の言説、少年少女を説得する方法、言語のリズム、『パン屋再襲撃』、黒沢清、フォント、資本主義、スナップ写真、『プロジェクトX』、禅、『千と千尋』、戦争映画、仮眠(アステリスク)、伊勢物語、「所作」、明治初頭海軍伝習における西洋音楽の受容、『フィガロの結婚』、ブーレーズ、ドキュメンタリー映画製作におけるコミュニケーション、『ファンタスティック・プラネット』、『遊戯王』、映画における文字、『蟲師』、帝政期ロシアにおける映像アーカイヴ、登山地図と記述の消滅、魔術的リアリズム、フィクション、映画における音、『大菩薩峠』、サニーデイ・サービス、『ロスト・ハイウェイ』、デ・ホーホ絵画の連続空間、リチャード・ブローティガン、絶対理論と音楽構造、くまのプーさん、インドのポップな神々、サイボーグ的身体、『ニューロマンサー』、『花よりもなほ』、ヴィジュアル・ロック、パンソリと浄瑠璃と民画、『かげろふ日記』、NHKの公共性、紅白歌合戦における『ポニョ』、ソンタグのコレクション論、五味康祐、シュテファン・ゲオルゲ、阿部公房『カンガルー・ノート』『密会』『赤い繭』、エステル・クルンバホヴァーの映画とチェコ・ニューウェイヴ、『春と修羅』序、村上春樹における空気、物語主義、『のでのでので』、ミース・ファン・デル・ローエのガラス建築、『攻殻機動隊』、松本人志、能におけるキリと変身、原爆映画、カズオ・イシグロ、ケムール人、「アントワーヌ・ドワネルの冒険」、韓国におけるネトロポリス・シエル、森敦『意味の変容』、『夏目友人帳』、中国の「詩-映画」、椋鳩十、江南の文人、ヴェジタリアニスム、中村宏の赤い便器、『ひぐらしのなく頃に』のループ構造、チェルフィッチュ、東野圭吾、『カタンの開拓者たち』と会話駆動型ゲームの会話分析、バナナマン、チェコの『白い鳩』と太陽、『マルメロの陽光』の太陽、『マルメロの陽光』の音、蜷川実花、『果てしない物語』、中国の小劇場演劇、ナンニ・モレッティとモキュメンタリー、木村拓哉、立川談志、字幕、黒、輪廻と主体、『橋』、風景が叙述されること、小津映画の音、団地と首吊り、警察と悪党、童貞文学、愛国ビジネス、輪廻、昆虫採集論、定点観測、地形図、『指輪物語』、ロボットアニメ、室尾犀星、ラノベ、ホウ・シャウシェン、『アバター』、台湾における対日意識、谷崎、『エリザベート』、360度映像、数学教育とケイパビリティ、阿部公房とラジオドラマ、木村敏、短歌の読まれ方、多和田葉子の「陶酔状態」、意味論、家族写真、映画における「風景」、マンガにおけるガイコクゴの使用、マスコットキャラクター、マヤ・デレン、ドビュッシーと武満徹、『ねじまき鳥クロニクル』、Vaporwave、プログラミング言語、決定論、足立区、忍者(その他俄かには思い出せぬもの多数)

2024年1月