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教員紹介

教員と研究領域/第1部門(人文総合)

三原 芳秋

研究室:東キャンパス国際研究館6階
オフィスアワー:随時(事前にメールで予約を取ること)
連絡先:メールアドレスはスパム対策のため画像化されています
研究概要と来し方行く末

卒論・修論・博論と、一途にT.S.エリオットとつきあってきました。(帝国日本/植民地朝鮮の思想史に「浮気」もしましたが、それも、エリオットをポストコロニアルに開いていこうとした結果、自然に生じた情事でした。)厚みのある一次資料読解(アーカイヴ調査)と、深みのある《理論》的思考とを合わせ持つことこそが人文学研究の醍醐味だと考えていて、そのような〈研究〉を心がけたいものだと、つねづね思って(は)います。英と米、詩と批評、文学と理論、帝国と植民地など、いつもどっちつかずで「と(et)」に囚われてきた感がありますが、最近(やや言い訳がましくもありますが)考えるようになったのは、それは、とりもなおさず〈関係性〉へのこだわりであり、さらに言えば、それら二者の間隙をなす「と(et)」にこそ(ヴァーチャルな)〈一〉のきらめきを直観することができるという確信(妄想?)があるからではなかろうか、ということです。

自分の研究者としての来し方をふりかえると、英国ウィンザーの学寮の一室で英詩に魅せられ、駒場の教室で『荒地』に衝撃を受け、本郷の研究室で「英文学」という学問を習い、米国イサカのカフェで〈いま・ここ〉に生きている《理論》を学び、京都の友人宅で「人文学」を(限定解除で =〈あほう〉の如く)語り合うことの愉快を知った……というようなことになるでしょうか。いままた、武蔵野という新たな〈風土〉が、自分の研究/生活をどのように変容させていくのか、たのしみです。

メッセージ

まずは、語学。語学力は、外国文学研究者にとって、「基礎体力」にあたります。古今東西の文学作品を諳んじていようとも、海外の最新理論を華麗にふりまわすことができようとも、語学力がなければ、騒がしい銅鑼にすぎません。

つぎに、精読。Generalな(一般的な/将軍のような)語り口で作品をキルのは、たしかに威勢がいいことかもしれません。しかし、個々のテクストの〈独異性 Singularity〉にかじりついてはじめて垣間見える〈普遍的なるもの the Universal〉というものがある、と僕は信じています。

そして、理論。モノやコトをつねに原理的・反省的に考えようとする態度、シキリやシキタリをものともせず敢エテ知ル(sapere aude)勇気。《理論》とは、「勉強」して「使いこなす」便利な道具ではなく(ましてや勉強もせずにポイ捨てするものでもなく)、自ら調べ自ら考えるためになくてはならない〈機械〉(“a machine to think with”)なのだと思います。

語学、精読、理論。どれも必要不可欠なものですが、(長い眼で見て)みなさんを一番たすけてくれるのは、語学ではないでしょうか。

2015年4月

〈おまけ〉新入生のみなさんへ

「四月はもっとも残酷な月」ですが、その残酷さゆえに、はなはだ愉快なのだと思います。頭が混乱し心がかき乱され、そこに見知らぬモノどもが殻を突き破って芽吹きはじめ、国立からの帰途に沈黙の舌が「言社研なんか来るんじゃなかった!」と叫びだす……そんな、痛苦と愉悦とがないまぜになる「入院」生活を送ってくれれば愉快痛快、などと無責任なことを思っています。

April is the cruellest month, breeding
Lilacs out of the dead land, mixing
Memory and desire, stirring
Dull roots with spring rain.